おはようございます。夏のおわりになって夏らしくなってきましたね。
さて、山種美術館で開催されていた展覧会”川端龍子/超ド級の日本画”も、もう終了した。ぼくは滑り込みセーフで後期展を見に行っている。すでにその一部は報告済だが、まだ全体のレポはしていない。そろそろ書いておかねばと思って、ふと頭によぎったのは、たしか、日曜美術館でこの展覧会を取り上げている、それを録画していたはずと、チェックしたら、ちゃんとしてあった。
山種美術館の図録は、ほかの展覧会のばかでかいのと違って、コンパクトなので、必ず購入している。”断捨離本棚”にやさしいし、第一、重いものは持ちたくない(笑)。では、その図録とテレビ画面で、”超ド級の日本画”を紹介したい。
川端龍子(1885-1966)は、和歌山で生まれ、上京後、洋画家でスタートし、文展に入選もした。その後、二十代で新聞や雑誌の挿絵を手掛けるようになり、”ジャーナリズム性”を獲得する。海外渡航後、何故か、日本画に転向し、30歳で再興院展に入選。二年後に同人に推挙されるも、軋轢があり脱退。1929(昭和4)年、”青龍社”を創立、大衆のための作品を発表し続けた。川端龍子の回顧展を見るのは、はじめて。豪快にして繊細。龍子作品にすっかり魅せられてしまった。
火生(1921) 高野山明王院の不動明王が下敷きだが、日本武尊をも重ねている。この作品に対し、これは”会場藝術”だと批判を浴びる。これに反発して、大衆が喜ぶ会場藝術こそ正統であると、のちに青龍社を立ち上げたのだ。

鳴戸(1929) 院展を脱退し、青龍社を立ち上げたあとの第1回展作品。阿波の鳴戸を想定したが、実際は江ノ浦(小田原)での写生を元にしたという。ダイナミックで豪快な、まさに”会場藝術”。

香炉峰(1939) 日中戦争がはじまり龍子は海軍省嘱託として戦地へ。自身も乗った偵察機を前面に出し、機体を半透明にして、背景の廬山を描いた。

操縦士が本人だったのにはおどろいた。

爆弾散華(1945) 終戦2日前、東京空襲を受け、母家は焼け落ちたが、画室が残った。その九死に一生を得た体験が植物に擬して描かれている。戦争で散った多くの命への想いが込められている。

金閣炎上(1950) これは、龍子の”ジャーナリズム性”が面目躍如とした作品。1950年7月2日、金閣寺が放火により炎上した。現地取材をして、なんと二か月内に完成させたという。古典的な表現で描いた火焔は、めらめらと燃え上る様を見事に表してる。

夢(1951) これもジャーナリスティックなもの。1950年、平泉の中尊寺金色堂に安置されていた藤原氏四代の遺体の学術調査が行われた。取材もし、翌年、本作を完成。棺の蓋を開けると、色とりどりの蛾が飛び出してくる。

舞う蛾。御舟の”炎舞”の蛾のようだ。

草の実(1935) こういう繊細な絵も描く。前回記事のビンボウカズラやヘクソカズラも入っているかも(笑)。

龍子は、ホトトギスの同人で、1日1句をモットーに晩年まで俳句をつくっていたそうだ。
萩の宿(1952) 芭蕉の奥の細道、ひとつやに遊女も寝たり萩と月がテーマではないかと言われている。奥の細道の旅路も5回に分けて踏破しているとのこと。

持仏堂の龍子。 信仰もあつかった。

それでは、みなさん、龍子のように、大胆かつ繊細に、今日も一日、お元気で!