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【cinema】『フランケンシュタイン』

2014-03-10 02:56:43 | cinema
'14.02.21 「フランケンシュタイン」@TOHOシネマズ六本木ヒルズ

2011年英国ナショナル・シアターで上演された「フランケンシュタイン」 その劇場上映があるということで、チケット事前予約! ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが、フランケンシュタイン博士と怪物を交互で演じており、両バージョンを週代わりで上映したのだけど・・・ なんと、先行のジョニー・リー・ミラー怪物×ベネディクト・カンバーバッチ博士版が大雪のため見れず・・・ ということで、ベネディクト・カンバーバッチ怪物×ジョニー・リー・ミラー博士版のみの感想です・・・

ネタバレありです!

「スイスの名家の嫡男ヴィクター・フランケンシュタイン博士は、ドイツ留学中に、ある強い理想に突き動かされ、遺体から新たな生命を作り出す実験に手を出してしまう。自ら生み出した生物のあまりの醜さに恐れをなし、怪物を残してスイスに戻ってしまうフランケンシュタイン博士。彼を求める怪物は・・・」という、あまりにも有名なメアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス」の舞台化。これは素晴らしかった! 事前のリハーサル風景などの短編上映も含めて、2時間程の舞台だけれど、冒頭から引き込まれて一気に見てしまった。

うーんと・・・ どこから書こうかな? とりあえず、原作について調べたことから書こうかな? というのも、原作は未読で、タイトルと怪物が出てくる話だというザックリとした知識しかなかったから。一応、フランケンシュタインは実は怪物の名前ではないこと、作者はメアリー・シェリーという女性であること、怪物は遺体を集めて作られたことは知っていたけど、それ意外は漠然とした知識。事前に予備知識を入れるべきなのか悩んだのだけど、これ以上の情報は入れずに見ることに決定! ちょっぴり面倒だったこともあり・・・(o´ェ`o)ゞ

毎度のWikipediaと、いくつかのblogなどを参考にさせていただいたところによると、原作は1818年3月11日にメアリー・シェリーが匿名で出版したゴシック小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』。そもそもは、16歳で後に夫となる妻子持ちのパーシー・ビッシュ・シェリーと駆け落ち、友人らと滞在していたバイロンの別荘で、それぞれ怪奇譚を書こうというバイロンの提案により、創作した物語がベースとなっている。当時は、中世趣味による神秘的なゴシック小説が流行っていたため、その形式を用いたらしいとのこと。なるほど・・・ 前述どおり、作者が女性であることは知っていたけど、執筆当時18歳だったそうでビックリ! 執筆には詩人であったパーシーの助言があったそうだけれど、フェミニズムの創始者、あるいは先駆者とも呼ばれるメアリ・ウルストンクラフトを母、無神論者でアナキズムの先駆者であるウィリアム・ゴドウィンを父として生まれたそうなので、持ち前の想像力と才能があったのかも。

かなり詳細なあらすじも読んだ感じでは、舞台版はほぼ忠実に再現されているように思う。なんとなく、怪物は知能が低く、凶暴であるというイメージがあったけれど、どうやらこれは1931年にユニバーサル・ピクチャーズが製作した映画『フランケンシュタイン(原題Frankenstein)』が以後の怪物の造形イメージに多大な影響を与えているためらしい。私もこの四角い顔に、ネジみたいのがついてるイメージだったし、知能は低いのだと思っていた。原作では、怪物は最初から凶暴だったわけではなく、人々から受け入れられないことに対する悲しみや憤りがそうさせたという描き方らく、数ヶ月で3ヶ国語をマスターするなど、知能は高く設定されているとのこと。本来は優れた人格を持っているのに、醜い姿ゆえ受け入れられず、人間としても認められないというのは、大好きな「オペラ座の怪人」を彷彿とさせるけれど、思えば原作者のガストン・ルルーがあの小説を書いたのも、ゴシック小説ブームの流れであっただろうから、何らかの影響はあったかもしれない・・・

と、話がそれた上に、前置きが長過ぎるわけだけど、やっぱりある程度の知識というか、原作との比較みたいなことは必要かなと・・・ つらつら何が言いたいかといえば、今回の舞台の怪物の設定は、知的とは言えないまでも、決して知能が低いわけではなく、最初から凶暴であったわけでもないので、かなり原作の設定に近いと思われる。ジョニー・リー・ミラー版を見ていないので、この設定がベネディクト・カンバーバッチの役作りによるものなのかは不明だけど、少なくとも脚本や演出からは、知能が低いがゆえに凶暴であるという設定とは思えなかった。だからこそ、怪物が運命を呪い、それでも創造主であるフランケンシュタイン博士の愛情を求め、もがきながらも生きようとする姿が生きてくるので、この設定は大切だと思う! まぁ、1931年版の映画はホラー映画として作られたのだろうから、凶暴で知能が低い設定になったのだと思うけれど・・・


ボリス・カーロフの怪物(『フランケンシュタイン』1931年版)

事前に10~20分くらいのメイキング映像のようなものが入る。ダニー・ボイルや主演の2人のインタビューや、稽古風景など。何故、2人を交代で演じさせたのかという部分については、その方がよりお互いの理解が深まるのではないかというようなことだったと思う。メモとか取ってないから忘れてしまった部分は多い・・・(o´ェ`o)ゞ ジョニー・リー・ミラーとベネディクト・カンバーバッチそれぞれが語る怪物の役作りで印象的だったのは、ジョニー・リー・ミラーは自分の幼い子供達の動きを、ベネディクト・カンバーバッチはリハビリ患者の動きを参考にしたということ。この時点ではよく分かっていなかったのだけど、冒頭から続く10数分で衝撃を受け、なるほどと納得!

さて、いよいよ本題です! まず、セットに驚く。円形の舞台には大きな繭のようなものがぶら下がっている。中に何かがいる。人のような姿・・・ ゆっくりと動く。薄い膜の肌色のようなそれは、まるで子宮のようなイメージ。見たことないけど(笑) 今、まさに産み落とされたように、ドサっと落ちる怪物。頭には大きな傷。つぎはぎだらけ・・・ 体も汚れている・・・ とにかく、怪物は生まれてから必死に起き上がろうとしている。ずっと・・・ その様子を観客は見ている。自由にならない手足。何かと闘っているというよりもそれは、"生きる"という本能のように感じた。本当に圧倒されたように、ただただ立ち上がろうと必死になっている怪物の姿を見つめていた。そして、だからこそ怪物が雨に打たれ、生い茂った草を掴み、生命の歓びのようなものを感じる瞬間、自分も彼と同じように感動してしまった。そう! 生きることは辛いけれど、だからこそ命の輝きは美しい! それは、たとえ醜い外見の怪物であっても・・・

でも、直後怪物は自らが醜く、人に愛されないという現実に直面する。その天国と地獄・・・ そのことを、カンバーバッチは、未だ自由にならない全身を使って表現する。怪物の悲しさ。言葉を知らない怪物は、自分の中に湧き上がった感情が、歓びであったことも、悲しみであることも知らないけれど、その何だか分からない感情が彼を苦しめていることは事実。動物にだって感情はあるけれど、感情に理由付けをしているのは人間だけなのかもしれない。○○だかからうれしい、××だから悲しい・・・ その理由付けがあるから、より思いが強くなり、辛くなる場合もあるけれど、だからこそ人間は様々なものを生み出してきたのではないかと思う。それは、別に芸術的なことだけではなくて・・・

怪物はある盲目の老人と出会う。盲目ゆえに怪物の外見にとらわれず、彼を彼のままに受け入れてくれる老人。人々に疎まれた経験から、最初は警戒していた怪物も老人に心を開いていく。彼により言葉を学ぶ。彼に優しく接してくれた老人の助けになりたいと、薪を拾ってくる怪物。怪物はその誕生の瞬間に、自らの創造主であるフランケンシュタイン博士に拒絶されてしまった。誰も彼に愛情を与えてくれなかったから、愛することを知らなかった。でも、老人と出会い、人の優しさを知ることで、怪物の中にも優しさが芽生える。愛されることにより、もっと愛されたいという思いが芽生え、そして愛する人のために役に立ちたいと考える。そういう感情が怪物を"人間"にしていく。でも、その変化は醜さゆえ気づいてもらえない・・・ 老人の息子夫婦は怪物の姿を見るなり、彼を"化け物"とみなし、恐怖と怒りで、老人が彼を庇う言葉も耳に入らない。悲しみでパニックになった怪物は、彼らの家に火をつけ老人もろとも焼き殺してしまう。怪物が本当に怪物になってしまった瞬間・・・

スイスの実家に戻っていたフランケンシュタイン博士は、恋人エリザベスとの婚礼を控えていた。ある日、幼い弟が何者かに殺される事件が起きる。怪物の仕業だと気づく博士は怪物と対峙する。「生まれたくて生まれてきたわけではないが、生まれたからには生き抜きたい」と言う怪物のセリフが切ない。あの冒頭ののたうちまわっての怪物の生への渇望を見てしまった身としては、切ないという言葉じゃ軽すぎる! 心が痛かった・・・ だって、当然のことだもの。その誕生はタブーだったかもしれない。彼の存在自体が罪かもしれない。でも、自分が望んだわけでもないのに、生み出されてしまった彼を断罪することは出来るのだろうか? たしかに、今では彼は殺人者になってしまったけれど・・・

怪物は博士にある依頼をする。自分に花嫁を作って欲しい。自分と同じ存在が欲しい。彼女を作ってくれたなら、2人でアフリカの奥地に行き、二度と人前に出てくることはないと誓う。怪物に脅される形で、女性を作り始めるフランケンシュタイン博士。作業に熱中し、創造の喜びを感じているのが伝わってくる。そして、その反面恐怖を感じていることも。自らの手で"人間"を造り出すという考えにとりつかれ、生み出したのは"怪物"だった。また1人怪物を生み出してしまうのか・・・ 博士は怪物の目の前で、完成した女性を命を与える前に殺してしまう。女性が完璧な美女だったのがなんとも皮肉。怒りと悲しみで我を忘れる怪物。これねぇ・・・ 前述したとおり、怪物は誕生の瞬間に創造主である博士から拒絶されたわけで、当然博士の愛情を欲していたわけだけど、自分が愛されないことは分かった。だから、姿を消す決心をしたわけだけど、誰からも愛されないのは辛い。だからこそ、愛してくれる存在を求めたわけだけど、その創造を拒否されたことは、彼にとっては自らの存在自体を否定されたってことなんだよね・・・ 彼と同じ存在は作りたくないと思ったわけなんだから・・・ この博士と怪物の葛藤は凄まじい。博士にとっては人道的にも"怪物"を新たに造らないことが正義だけど、創造主として怪物の存在自体を全否定し、それら全ての重荷を怪物だけに負わせてしまうのは、あまりにも酷い。

怪物の怒りは博士の大切なものを奪うという形で現れる。フランケンシュタイン博士の婚礼の夜、新婦エリザベスの寝室に忍び込んだ怪物は、博士の目の前で彼女を陵辱し、そして殺してしまう・・・ エリザベスに罪はないけれど、怪物を憎みきれないのは何故だろう・・・ やはり彼の背負った運命が、あまりにも辛すぎるからかな? そして、博士の身に起こったことは、彼の罪に対して当然の報いだと思ってしまう。もちろん、エリザベスはかわいそうなのだけれど、その彼女へ対しての罪も、博士が責任を負うべきだと感じてしまうのは間違っている? だって、彼には怪物をこの世に生み出した創造主としての責任があるのだから・・・ 姿は醜くても、彼が怪物を人間として愛していたら、怪物は人々には愛されず、たとえアフリカの奥地に隔離されて生きたとしても、幸せな人生を送れたのではないか? 博士の罪は、非人道的な方法で、生命を生み出したことではなく、自らの罪を認めず、その責任を負わなかったことにあるのかも・・・ メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス」を執筆していた時、彼女は18歳で息子がおり、妊娠中だったのだそう。しかも、16歳でシェリーと駆け落ちした後、17歳で未熟児で出産した長女を亡くしている。そういう、彼女の"生む性"としての、生み出した生命に対する責任感や恐怖感のようなものが反映しているのかもしれない・・・ 同じく"生む性"である私自身は、母親になったことがないので、本当の気持ちは理解できていないかもしれないけれど、彼女自身の出産時に母親を亡くしているし、出産や子育てに畏れを感じていたのではないかと思った。

物語は、北極の海へ2人で肩を抱き合い去っていくところで終る。そう考えると、この舞台では2人は表裏一体ということなのかな? 怪物の狂気と博士の狂気・・・ 怪物は確かに怒りに狂っていた。博士は自らの考えに執着し、人道を越えてしまったことは、間違いなく狂気を孕んでいる。ただ、ジョニー・リー・ミラーはどちらかというと世間知らずのお坊ちゃまという印象だった。悪いと分かっていても止められないという狂気とも、そもそも何が悪いのだというような、倫理感のない狂気とも違う感じ・・・ 演技上手いので、ダメだと言っているのではなく、自分が求めていた博士の狂気とは違っていた気が・・・ 個人的には、悪いことは分かっているけれど、自分の考えにとりつかれて、それを抑えることが出来ない狂気みたいなものが見たかった。この舞台版ではフランケンシュタイン博士が怪物を生み出すに至るまでは描かれていないので、伝わりにくい部分はあるのだけど、何となくキャラクター的にベネディクト・カンバーバッチの方が、そういうイメージに合っている気がした。ダニー・ボイルは2人が表裏一体であるという演出をしたくて、2人に同役を交互で演じさせたのだと思うので、この大人になりきれていないジョニー・リー・ミラーのフランケンシュタイン博士と、子供の心のままだったベネディクト・カンバーバッチの怪物というのも、もちろんとってもよかったのだけど、逆パターンだと作品がどんな変化をするのか見てみたい!

キャストについては、エリザベス役の女優さんが良かったのだけど、名前が分からない・・・ あと、盲目の老人役の人も! この物語にあって、唯一怪物を受け入れてくれた人。その存在に救われたのは怪物だけじゃない。あとはもう2人に尽きるという感じ! 2012年のオリビエ賞では2人とも主演男優賞を受賞。納得の演技! ホントに素晴らしかった

セットはわりとシンプル。盲目の老人の家、博士の研究室、エリザベスの部屋など、"人間"の居る場所はセットがきちんとあるけれど、怪物が1人でいるところは、ほぼセットはなし。冒頭で怪物が出てくる袋状のものが子宮を感じさせて素晴らしいデザイン! 印象的だったのは、舞台の真ん中に草を生やしたシーン。雨が降り、文字通り怪物が転げ周り、生命を実感する。このシンプルなセットも素晴らしい! キラキラした照明が印象的だったのだけど、最後にアップになってビックリ! すごい数の電球で出来てた! これ好き

とにかく、素晴らしかった! これは生で見てたらすごい迫力だろうなぁ・・・ でも、日本にいながらこんな素晴らしい舞台が見れるというのはうれしい! 今後もロキことトム・ヒドルストンとハドリー・フレイザーの「コリオレイナス」などの上映も決定しているそうなので楽しみ

3月20日のオープンするTOHOシネマズ日本橋での上映が決定! ということで、逆バージョン見る予定!! 見たら追記する!o(`・д・´)o


コメント (2)
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