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【Googleのロゴ】藤田嗣治 生誕132周年

2018-11-27 00:30:07 | Google's logo

毎度のGoogleのロゴがこんなことに!



藤田嗣治 生誕132周年

もちろん知ってる! 猫の絵はもちろん、子供の絵も大好き😳


一応毎度のWikipediaから引用


藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は

日本生まれの画家彫刻家第一次世界大戦前よりフランスパリで活動、

を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、

独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは

西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。

フランス帰化後の洗礼名レオナール・フジタLéonard Foujita)。


1886年(明治19年)、

東京市牛込区(現在の東京都新宿区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。

父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854-1941年)は、

大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、

軍医として台湾朝鮮などの外地衛生行政に携り、

森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。


すごい家柄の出身なのね😲


1905年に高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業。

その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。


1905年(明治38年)、

森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学する。

しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、

いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、

藤田の作風は不評で成績は中の下であった。


森鴎外の薦めで東京美術学校に入ったのね😲

 

1913年大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。

当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、

家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて

後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニシャイム・スーティンらと知り合う。

また彼らを通じて、

後のエコール・ド・パリジュール・パスキンパブロ・ピカソ

オシップ・ザッキンモイズ・キスリングらと交友を結びだす。

フランスでは「ツグジ」と呼ばれた

(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。


フジタ自身もスゴイ人だけど、交流のあった人物たちがまたスゴイ😲

 

1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、

日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。

戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、

寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。


そんな生活が2年ほど続き、

大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会った

フランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をした。

このころに初めて藤田の絵が売れた。

最初の収入は、わずか7フランであったが、

その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。


面相筆による線描を生かした独自の技法による、

独特の透きとおるような画風はこの頃確立。

以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。

サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。


当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、

画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。

多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、

その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。

彼女は藤田のためにヌードとなったが、

その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、

1922年サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、

8000フラン以上で買いとられた。

 

その後1933年に南アメリカから日本に帰国、

1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、

一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。

1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中国に渡り、

1939年に日本に帰国した。

 

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発し、

翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、

再度日本に帰国することを余儀なくされた。

その後太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、

戦争画(下参照)の製作を手がけ、

南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や

アッツ島玉砕』などの作品を書いた。


このような振る舞いは、

終戦後の連合国軍の占領下において「戦争協力者」と批判されることもあった。

また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、

一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、

千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。

こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。


1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、

1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。


1959年にはランスノートルダム大聖堂カトリック洗礼を受け、

シャンパン「マム」の社主のルネ・ラルーと、

「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、

レオナール・フジタとなった。

またその後、

ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。

1968年1月29日スイスチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。

遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された。

日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。


うーん💦

戦意高揚のために利用して、その後戦犯扱いして冷遇したのに、

亡くなった後に勲章与えてもね😞


と、長々引用してしまったけど、これでも半分くらい💦

ということで、乳白色の秘密などはWikipediaで!


このロゴフジタの作品なのかな?

猫かわいい😍

 

検索画面のロゴはこんな感じ


お誕生日おめでとうございます!

コメント
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