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【tv】「令和の法隆寺 千四百年の伝承と聖徳太子の残響」@BSフジ

2020-01-20 00:14:12 | tv

【tv】「令和の法隆寺 千四百年の伝承と聖徳太子の残響」@BSフジ

 

 

お正月に放送された番組。録画しておいたのを見てみたら、とても面白かったのでメモ取りながら鑑賞。備忘録として記事にしておく😌

 

法隆寺(聖徳宗総本山 法隆寺)の敷地面積は18万7,000㎡。東京ドーム14個分。東院伽藍と西院伽藍があり、西院伽藍に世界最古の木造建築がある。中門は飛鳥時代(Wikipedia)の建築で入口が2つあるのが特徴。左右の金剛力士像は奈良時代(Wikipedia)に作られた塑像(Wikipedia)。吽形は16世紀に修理され胸から下は木製になっている。

 

西院伽藍の回廊は最も重要な聖域を囲んでおり、かつては僧侶も中に入れなかった。胴張(コトバンク)の柱には埋め木(コトバンク)がされており、下の方には根継ぎ(コトバンク)がしてあり、1300年に渡り人々に大切にされてきたことが分かる。

 

金堂(Wikipedia)と五重塔(Wikipedia)が並列で並ぶ法隆寺伽藍配置。金堂が本堂で世界最古の木造建築となっている。雲斗(コトバンク)、雲肘木(コトバンク)、卍崩し(コトバンク)の勾欄やそれを支える人字割木など、飛鳥時代の建築様式が見られる。金堂内部の空間は大きく三つに分けられる。

 

 西の間=阿弥陀三尊像(Wikipedia)

 中の間=釈迦三尊像(Wikipedia)

 東の間=薬師如来像(Wikipedia)

 

四隅には四天王(Wikipedia)が配置されている。最古の四天王。後世では憤怒の表情や躍動感ある姿で表されるが、法隆寺金堂の四天王は直立で口を堅く結んでいる。


釈迦三尊像

 

本尊は釈迦三尊像。飛鳥時代に止利仏師(Wikipedia)によって作られた。銅製で金色だった。二等辺三角形で左右対称なのは飛鳥時代の仏像の特徴。口元はアルカイックスマイル。中国様式ではあるが表情や衣は日本独自の表現。脇侍は左が薬上菩薩(Wikipedia)、右が薬王菩薩(Wikipedia)で薬を持って人々を救う。

 

誰が何のために作ったのか?

 

釈迦三尊像の光背に銘文によると、聖徳太子(Wikipedia)と后の病気平癒を祈願して后や王子が造立を発願。聖徳太子と后が亡くなったため、太子の母である穴穂部間人皇女(Wikipedia)と合わせて冥福を祈願して止利仏師により推古31年(623年)に造られた。"尺寸王身(せきすんおうしん)"と記載もあり、聖徳太子の等身であることが分かる。

 

法隆寺は聖徳太子が建立したとされているが、生前は何を祀っていたのか?

 

薬師如来の光背の銘文によると、聖徳太子の父である用明天皇(Wikipedia)が自らの病気平癒を願い、寺と薬師如来を造ることを請願したが、完成を見ることなく崩御。推古天皇(Wikipedia)と聖徳太子が遺志を継ぎ、推古15年(607年)に完成させたとある。銘文によると薬師如来の方が15年早いが、薬師如来が造形化されるのは607年より後の時代で、様式的に法隆寺の釈迦三尊像より後に造られたと考えられる。最初の本尊が何かは不明。

 

日本書紀(720年完成)に法隆寺は670年に焼失したと記載があるが、今の伽藍は誰が何のために建てたのか?

 

そもそもは601年に聖徳太子が住まいとして斑鳩宮(Wikipedia)を造営し、その後父である用明天皇のための寺を建立。607年法隆寺建立。都である明日香から20キロ離れたこの地を選んだのは何故か?

 

東野治之教授(Wikipedia):斑鳩の地は大和川、富雄川、竜田川があり、交通の要所であった。外国使節に向けての国力誇示のデモンストレーションだったのでは? 

 

6世紀後半築造の藤ノ木古墳(Wikipedia)もあり重要な土地だった。この古墳が誰のものであるのか不明だが、大伯父である穴穂部皇子(Wikipedia)の墓ではないかと言われている。

 

670年に火災により焼失したが、その後の再建状況について明治以降論争が続いているのだそう。今見ている伽藍は創建当時のものなのか? 昭和14年に発掘調査が行われ、西院伽藍の脇に江戸時代(Wikipedia)に若草伽藍(Wikipedia)と呼ばれる塔頭伽藍があった場所で、塔と金堂の基壇が発見された。これにより若草伽藍=創建法隆寺ではないかと考えられた。2004年に焼痕瓦が出土。607年に建立されたのは創建法隆寺で、670年に焼失したと考えられる。さらに、この創建法隆寺は南北一直線に配置される四天王寺式伽藍配置であったと思われる。

 

何故伽藍配置を変えたのか? また、何故場所を移したのか? 焼失前の釈迦三尊(623年造立)は無傷で残ったのか?

 

再建ではなく新しい寺を建てたのではないか? 奈良文化財研究所は2008年に金堂の天井裏調査を行った際の木材を、年輪年代法(Wikipedia)で調査した。中心となったのは客員研究員の光谷拓実氏(Wikipedia)。年輪は1年毎に増えるが、その幅はその年の気温、降水量、日照時間で変わる。幅の変動は一定地域で共通したパターンがある。1980年からパターンのデータベースを構築。樹皮直下の年輪が伐採年となるため、面皮の残る木材を探し出して調査。金堂の材料は668年に伐採されたことが分かった。670年に創建法隆寺が焼失前に伐採されていることになる。

 

焼失前に建立計画があったのか? もしくは既に建っていたのか?

 

建築史家の鈴木嘉吉氏(Wikipedia)は、2008年に金堂の天蓋(Wikipedia)を外した際の木材に遊びの金具があることを発見した。西の間、中の間は飛鳥時代のものだが、東の間は鎌倉時代(Wikipedia)。この東の間の薬師如来の天蓋に遊びの金具があった。飛鳥時代の木材の天蓋ではなく、軽い天蓋がかかっていたのでないかと考えた。

 

奈良時代の「伽藍縁起并流資材帳」(国立国会図書館デジタルコレクション)によると、693年の仁王会(コトバンク)で持統天皇(Wikipedia)から紫色の布製の天蓋を下賜されたと記載があり、この天蓋を掛けたのではないか。西の間、中の間の木材には金堂が完成して直ぐに金具を取り付けたので、塗料の赤(弁柄)が残っている。東の間は金堂の完成からしばらくして塗料が色落ちしてから金具を取り付けたと思われるので赤が薄い。

 

西の間=木製の天蓋、中の間=木製の天蓋、東の間=何もない 後に布製 何故?

 

仏像が内陣の前方に祀られている。もともとは本堂とは別の用途のために造られたのではないか? 聖徳太子の御霊を祀る廟堂(コトバンク)として造られたのではないか? 670年より前に建っていたこと、釈迦三尊像が焼失していないこと、また釈迦三尊像が聖徳太子の等身大であることの説明がつく。

 

後ろの空間には何があったのか?

 

平安時代の記録によると厨子が3つ並んでていたらしい。そのうちの1つが玉虫厨子(Wikipedia)。厨子とは仏像やお経を収めるもの。玉虫厨子は高さ2mで飛鳥時代7世紀前半作。金具の下に玉虫の羽根が埋め込まれているため玉虫厨子と呼ばれる。飛鳥の建築、工芸、絵画の技法が使われており、側面には釈迦の前世の腹を空かせて餓死寸前の虎に自らを与えるエピソードが描かれている。聖徳太子を悼むお堂の名残りではないか?

 

聖徳太子を祀る寺ではなく、聖徳太子が造った寺であることが重要だったのではないか?

 

東の間の薬師如来の光背に聖徳太子が建てたという縁起を記載し、天皇から授けられた布製の天蓋を掛けることで、聖徳太子が造った寺であると朝廷が公認した形。

 

693年に聖徳太子の廟堂から、金堂に大転換したのではないか?

 

西院伽藍の五重塔は金堂より後に造られたが日本最古の塔である。32mあり6層に見えるが1番したは裳越。鎌倉時代に落雷で火災に遭うも、人々の尽力によって消化された。相輪(Wikipedia)は落雷除けと言われている。

 

五重塔は逓減率が使われており、初層に対する最上階の幅の割合は0.5で、上は下の半分となっており、これにより安定感が生まれている。これが1300年以上前に建った奇跡。

 

昭和9年~60年まで半世紀かけて昭和の大修理が行われた。指揮を執ったのは法隆寺の宮大工西岡常一(Wikipedia)。鬼と呼ばれた伝説の宮大工。その唯一の内弟子が鵤工舎の小川三夫氏(Wikipedia)。


小川三夫氏:五重塔は知恵の塊。知識がなかったのだから知恵を絞った。檜の強さを知っている工人がいたのでは? 欅や松では600年、杉で900年しかもたない。檜だから1300年以上保っている。西岡氏から「木は生育の方位のままに仕え」と教えられた。山に生えていた時と同じ方向に置く。

 

五重塔内部には東西南北に仏教の重要は場面が再現されている。例えば北は涅槃(Wikipedia)。横たわる釈迦の向こう側には菩薩(Wikipedia)や阿修羅(Wikipedia)が見守っており、手前では羅漢(Wikipedia)たちが嘆き悲しんでいる。奈良初期の作。

 

しかし、五重塔の最も重要なものは中央の心柱(Weblio)。その地中には礎石があり、その中に舎利が納められている。昭和の大修理で確認された。塔の語源はストゥーパ(卒塔婆)(Wikipedia)で、舎利(Wikipedia)を安置して拝するためのもの。心柱=塔婆。穴は開けない。五重塔はこれを倒れないようにするための建物。心柱に周囲の各層に接していない。積み重ねられていない。揺れに対して各層ごとに揺れる? 心柱が逆に揺れる? 耐震構造になっているらしい。

 

小川三夫氏:そもそもはインドや中国から入って来たが、気候風土に合わせた建物に造り変えた知恵こそが日本人の素晴らしさではないか。猿真似と言われたりもするが、そうではない。

 

21世紀を迎え五重塔の謎の解明が進んでいる。五重塔の心柱の円盤標本を年輪年代法で調査したところ、594年に伐採されたことが分かった。594年は法隆寺創建前の年代。転用したのではなくて貯木されていたのではないか。法隆寺を聖徳太子が建てたということにするため、五重塔を出来るだけ古い形で、聖徳太子が生きた時代の木材を使って建てたいと考えたのではないか。

 

令和元年十月八日、西円堂で大般若経転読法要(コトバンク)が行われた。大般若経はインドから玄奘三蔵(Wikipedia)が持ち帰った経典を漢訳したもので600巻ある。西円堂の本尊は薬師如来坐像。2m半。奈良時代作で漆と木屑に金箔で覆われていた。特に耳の病を治すとされ、耳が通じるようにと錐を奉納する。


百済観音像

 

百済観音像(Wikipedia)。飛鳥時代の作。八頭身あり2m。正面から見られることを意識しているのが飛鳥時代の特長だが、横から見られることも意識しているように見える。異国風であるが渡来仏ではなく日本製。どのように法隆寺に来たのかは謎。

 

東院伽藍は聖徳太子が居を構えた斑鳩宮の跡に造営。造営に尽力した行信僧都(Wikipedia)の像は唐招提寺の鑑真和上像(コトバンク)と同時期の最古の人物像。


救世観音像

 

夢殿(コトバンク)は奈良時代に造られた。聖徳太子が斑鳩の宮で瞑想していた時、夢に仏が現れたという伝承に由来。厨子を中心に周囲を周ることが可能。毎年春と秋に厨子の扉が開かれる。厨子の内部に安置されているのは救世観音像(Wikipedia)。飛鳥時代の作。最古の木彫像。樟の一木造りで、透かし彫りの宝冠をいただく。幾何学的な衣は飛鳥時代の特徴。保存状態が良いのは長い間衣に包まれて秘仏であったため。明治時代にアーネスト・フェノロサ(Wikipedia)が扉を開き再発見した。

 

何故、奈良時代の夢殿に飛鳥時代の救世観音が安置されているのか?

 

奈良時代様式の夢殿に飛鳥時代の像を持って来た。聖徳太子信仰。救世観音は等身大の聖徳太子像と言われている。西院・東院とも太子信仰の寺である。

 

聖徳太子はどんな人物だったのか?

 

聖徳太子(中央) 山背大兄王(右)


材料がなく分からない。後から付け加えられた要素も多い。574年生まれと言われており、用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた。大おじに蘇我馬子(Wikipedia)がいる。生誕の地は明日香。

 

明日香の橘寺(Wikipedia)は聖徳太子の祖父欽明天皇(Wikipedia)の橘宮が置かれた場所に聖徳太子が寺を建立したと伝わる。五重塔の礎石がある。直径90cmで38mの塔が建っており大伽藍があったが、火災や僧兵(Wikipedia)により壊滅。本堂は江戸時代に再建され太子堂と呼ばれる。太子像が本尊。聖徳太子が推古天皇のために勝鬘経(Wikipedia)を講じていると、蓮の花が1mも降り積もった。南の山に千の仏頭が現れ光明を放った。不思議なことが続いたため、推古天皇が聖徳太子にここに寺を建てることを命じたとされている。

 

青年期の聖徳太子伝承としては、廃仏派の物部守屋(Wikipedia)と崇仏派の蘇我馬子が対立。実際は物部守屋は仏教を受け入れていたそうなので、そういう名目での権力争いであった。これが587年の丁末の変(Wikipedia)で、13歳の聖徳太子は大おじである蘇我馬子と戦った。その際、仏法を守る四天王に勝ったら四天王を祀る寺を建てると戦勝祈願をした。物部守屋は討ち取られた。

 

6年後の593年に四天王を祀る寺を建てたのが、大阪の四天王寺(和宗総本山 四天王寺)。創建は法隆寺より古いが伽藍は昭和に再建された。中門、五重塔、金堂、大講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置。金堂には雲形の装飾があり飛鳥時代の建築様式で再建されている。本尊は救世観音。夢の中で穴穂部間人皇女の口に救世観音が飛び込み、我はそなたの腹に宿り、生まれ変わりこの世の中を救うだろうと告げた。目覚めると聖徳太子を身ごもっていたという伝承から。四天王から聖徳太子に信仰の対象を変える。奈良時代から聖徳太子を神格化する動きが盛んになり、超人的な伝説が生まれる。

 

何故、聖徳太子は神格化されたのか?

 

非常に優れた人物ではあった。早くから神格化し、それが広まって行った。

 

斑鳩町の法輪寺(嵐山 虚空蔵法輪寺)は聖徳太子の息子である山背大兄王(Wikipedia)が聖徳太子の病気平癒を祈願して建てた。4人の后の内の一人膳菩岐々美郎女(Wikipedia)が住んでいたとされている。金堂、三重塔が並ぶ法隆寺式伽藍。三重塔は昭和19年の落雷で焼失したが、作家の幸田文(Wikipedia)らの尽力で昭和50年に再建された。西岡常一のもと小川三夫も副棟梁として再建に携わる。飛鳥様式再現。

 

講堂は飛鳥時代の仏像が並ぶ。本尊は薬師如来坐像。飛鳥時代の木彫如来像としては唯一最大。山背一族の反映。虚空蔵菩薩(Wikipedia)は飛鳥時代作。水瓶を持っているので観音菩薩(Wikipedia)なのではないかとも言われている。

 

山背大兄王は権力争いに巻き込まれる。蘇我入鹿(Wikipedia)に斑鳩宮を焼き払われてしまう。生駒山(Wikipedia)に逃げるが、ここで兵を挙げれば多くの人を巻き込んでしまうと考え、斑鳩寺(創建法隆寺)に戻り、一族もろとも自害して果てた。これにより聖徳太子の一族は滅亡。通常子孫が絶えると大規模な再建は考えにくいが法隆寺は再建された。仏教によって国を維持して行こうという天武天皇(Wikipedia)、持統天皇(Wikipedia)以降の朝廷の政策に合致し、それが法隆寺の再建に上手く結びついたのではないか。

 

徒歩15分の位置にある龍田神社(Wikipedia)は紀元前の崇神天皇(Wikipedia)の頃の創建と言われている。百人一首の"ちはやふる 神代もきかず 竜田川"で有名な所。聖徳太子が寺を建てる土地を探していたところ、白髪の老人の姿をした龍田大明神に出会う。斑鳩こそが仏法興隆の地、私が寺の守護神になろうと語った。聖徳太子はここに法隆寺を造る。

 

明治時代以前は法隆寺の管理下にあり、法隆寺から30人の僧侶が神社に来て例祭や大祭を執り行った。今でも大きな行事の際には互いに奉納し合う。

 

令和元年11月15日に大講堂にて秋の法要が行われた。大講堂は990年に再建された学問の道場。本尊は薬師三尊像で平安時代作。脇侍は右が日光菩薩(Wikipedia)、左が月光菩薩(Wikipedia)。

 

勝鬘夫人(Wikipedia)の遺徳をしのぶ勝鬘会法要。勝鬘夫人は古代インドの女性で在家の仏教徒。女性は成仏できないというものもあるが勝鬘経は女性を受け入れ救済を解く内容。聖徳太子は勝鬘経を説いた。女帝の時代だったこともあるが、女性の救済を考えたいのではないか。日本で初めて法華経(Wikipedia)を注釈し講讃した。法華経は女性が救われることが書かれている。女性の信仰を集める。奈良時代光明皇后(Wikipedia)が法隆寺に様々な寄付をした。光明皇后と周辺の女性たちが東院伽藍の造営を支援したと考えられる。

 

東院伽藍に隣接する中宮寺(聖徳宗 中宮寺)も聖徳太子信仰が色濃い寺で、太子の母穴穂部間人皇女の発願。飛鳥時代から一貫して尼寺。本堂は昭和43年に高松宮妃の発願で建てられた。500m東に位置する火災前の創建法隆寺と対となっていたのではないか。昭和38年の発掘で塔と金堂跡が確認された。室町時代から皇族が寺に入り門跡寺院'(Wikipedia)となった。


菩薩半跏像

 

本尊は菩薩半跏像(伝如意輪観音(Wikipedia))で悩み苦しむ人々を救う。アルカイックスマイルで表現されており、スフィンクス(Wikipedia)、モナリザ(Wikipedia)と世界三大微笑像と言われている。聖徳太子が穴穂部間人皇女の姿を刻んだと言われている。樟の木で色彩がほどこされていたけれど、お香や燈明の油で黒光りしている。

 

平成31年3月22日、聖徳太子お会式(Wikipedia)が開催された。お会式とは太子の命日に奈良時代から続いている法要。聖霊院にて開催。聖霊院は鎌倉時代の500回忌に僧侶の生活の場であったものを改装した。雅楽と共にお経を唱える。本尊は聖徳太子像。平安時代の作で太子45歳の時の姿だと言われている。 

 

十七条憲法(Wikipedia)。法律ではなく教訓。第一条:和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為せ。朝敵内の争いを諫める。第二条:篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり。


聖徳太子は平和の象徴?


聖徳太子ほど評価の移り変わった人物はいない。太子はその時代にふさわしい姿に変容して行った。近代のイメージも変容の一つ。

 

奈良時代:優秀な政治家

平安~江戸時代:観音の化身。超能力を持つ。

 ⇨明治維新で皇室中心の政治に。聖徳太子も「偉大な皇族」のイメージに。

明治時代:天皇制国家にふさわしい皇族

戦前:承詔必謹(詔を承けては必ず謹め)=天皇の言葉を受けたら必ず謹んで従え

戦後:平和主義者

 

聖徳太子は時代の要請に合わせてどんどんイメージを転換してきた。

 

令和元年12月8日お身拭い。埃を払う。聖徳太子が造ったお寺だから人々が守って来た。信仰の力。五重塔の心柱の焼け焦げは鎌倉時代の落雷。みんなで消したと記録がある。それこそが日本人の精神。


感想

とても面白かった! 近年では実在しなかったのではないかとまで言われている聖徳太子。でも、厩戸皇子という人はいたらしいし、亡くなった直後の奈良時代の太子のイメージが一番近い像なのかなと思う。その太子が広めようとした仏教により国をまとめようとした結果、太子を神格化して行った、そのために"聖徳太子が建てた法隆寺"が必要だったというのはとっても納得のいく説明だった。


番組内に登場された専門家の方々のお話は全て興味深かったけれど、御年91歳の鈴木嘉吉さんが印象深く、小川三夫さんのお話がとても興味深かった。特に檜だから1300年以上もっているという点と、新しい文化を取り入れながらも日本の気候風土に合わせたものに形を変えて行く日本人の柔軟さについての言及がとてもうれしかった。猿真似というニュアンスで伝えられることが多かった気がするので😢 取り入れたものをそのまま使うなら猿真似だけど、それを自分たちに合う形に変化させたのならば、それはもう別物なのではないか。そういうことが昔から日本人は得意だったのだと思う。


日本のお寺や住宅は木と紙なので、火災にとても弱い。自然災害も多く、さらに戦で焼かれたりもした。その中で、仏像をはじめとした文化財が残ってきたのは、昔の人々が必死で守ってきたから。そう考えるとさらに重要な宝であるように思う。これをさらに1000年後まで残していきたい😌 

コメント (1)
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