〈奪われた朝鮮文化財・なぜ日本に 24〉
日本に文明の光当てた証、高句麗壁画古墳
装飾品や古鏡、刀剣、土器などの貴重な遺物奪う
朝鮮絵画のルーツを辿れば、高句麗時代の古墳内に描かれた1600余年前の壁画に辿り着く。
高句麗は新羅、百済に先がけて最も早く国家を形成した。紀元前3世紀頃に中国・東北部で、国を創建した高句麗は漢の勢力を駆逐し、周辺の小民族国家 を吸収、統合して強大な騎馬民族国家を形成した。「広開土王陵碑」に記されているように領土を拡張し、南下するに従って鴨緑江を渡って平壌に国都を定め た。
この国は、勇猛果敢な騎馬軍団を持った軍事大国としてばかりではなく、高い水準の文化と科学を誇った文化国家としても知られ、周辺国家に文化の恩恵をもたらした。原始的な農耕時代にあった日本に文明の光をあてたのも高句麗である。
国家創建の地である中国・東北地方や平壌周辺には、すぐれた文化をしのばせる遺蹟が多く残されている。これら遺蹟の中で高句麗文化の精髄を鮮明に見せてくれるのが、今まで発見された70余基の壁画古墳である。2004年、世界文化遺産にも指定された。
中国文化の亜流と主張
日帝時代にもいくつかの壁画古墳が発見されたが、これを実見した日本人学者は、その造形のすばらしさと悠久の年月を経ているにもかかわらず鮮やかに残された色彩の美しさに驚きを隠さなかった。
朝鮮古蹟の日本人初調査者とされている関野貞は、「朝鮮美術史」で壁画について次のように書いた。
「近年高句麗時代の古墳より発見せられし壁画は、今より1034年ないし1500余年前のものであって、じつに支那本国にも見ることのできぬ東洋最古の絵画を代表している。……日本にも支那にも類例を見ることができない貴重な標本である」
高木紀重という日本人も、いくつかの壁画を見学して「朝鮮の古美術」という著書にこう記した。
「この壁画ほどに大作にして、しかも格調の高い絵画は絶無と言ってよい。……絢爛たる文化を築いた高句麗の盛時を語る唯一の完好なる遺品であり、東洋の所持する最古の絵画なのである。」
また近年の研究者と見られる土居淑子は、壁画が朝鮮民族特有の始まりになったことについて「東洋美術全史」で短く触れている。
「高句麗において絵画に、真に民族固有の性格を持って展開するのは4世紀漢民族勢力の退潮にともなって、高句麗各地の勢力が台頭するころであった」
この一部の引用からも日本人学者が壁画の考古・美術的価値について認めていることは間違いない。しかし問題は、この壁画が「支那本国に源がある」とこじつけていることである。
日帝時代に朝鮮文化抹殺政策に御用学者として奉仕した彼らは、朝鮮の文化が中国の亜流であることを主張してやまなかった。なにかにつけても中国の「影響」を付け加えた。その体質は現在も変わらず「高松塚古墳」の壁画についても朝鮮との関連を打ち消そうと躍起になっている。
しかし先にあげた高木紀重は、「総じて朝鮮の文化芸術に強く働きかけたのは支那本土」とか影響の度合いが「宗主国に藩塀国という政治関係のためにすこぶる熾烈なものがある」と言いながらも次のような見解を述べてもいる。
「にもかかわらず、ついに朝鮮の芸術は最後まで支那化されもせず、満州や蒙古のそれともならなかった。これは、まさしく稀有のことがらに属する」
高木が「稀有なこと」と言わずとも高句麗壁画はまぎれもなく、朝鮮民族が固有の美意識をもって創造した絵画美術の傑作品である。
朝鮮民主主義人民共和国で出版された「朝鮮文化概観」では次のように述べている。
「高句麗の古墳壁画は、三国時代に限らず朝鮮古代中世紀の造形美術史上、最も誇るべき貴重な遺産であり、当時の世界美術を代表する優れた作品の一つ である。朝鮮民族の古代以来の美術遺産に、深く根をおろしている高句麗の壁画は、4世紀ごろ著しく発達し、6~7世紀に至っては、驚くべき進歩を遂げ た。」
1985年に東京・大丸百貨店の特設会場で「高句麗文化展」が開催された。華やかな文化を示す芸術的な遺品の数々が展示され、観客の耳目をいやがう えにも引いた。特に古墳の墓室をなぞった展示室に、貼りめぐらした壁画の模写は、文化展の圧巻として観客に深い感銘と興奮をもたらした。海外で初公開の壁 画は平壌近郊の安岳古墳、徳興里古墳、大安里古墳など19基の古墳に描かれた壁画だった。
当時の王侯貴族の衣装や生活ぶりを写実的に描いた壁画、天下無敵の勇壮な騎馬軍団、馬を駆って鹿を追う狩猟図、あでやかにおどりを舞う女性の姿、青 龍、白虎、玄武、朱雀の空想的動物を描いた神秘的な四神図などなどは観客を魅了し、しかも日本文化の源流にまで想いを至らす内容だった。
かつて関野や高木が壁画を観賞して「すこぶる写生の妙を示している。」とか「雄渾豪快なる気象を発揮している。」もしくは「人力の表現し得る極限と はまさにかくの如きものかと驚倒贊嘆、声を飲ませる態の神品」と口をきわめて絶賛したが、当時の観客に高句麗文化の水準の高さを十分に伝えた文化展だっ た。
高句麗壁画の絵画的特色は、技巧にとらわれないあるがままの姿を自然に描いた骨太い描写にある。日本画や中国画は、精緻をこらし、見栄えは良いが自然と一体となった趣は伝わらない。
自然をそのまま受け入れ、作者の素朴な意志を簡潔な筆致で伝えるのが朝鮮絵画の伝統として受け継がれていくのである。故に高句麗壁画は朝鮮絵画の祖型とされるのである。
日本絵画の源流、高句麗僧曇徴
ところで、植民地時代に朝鮮の文化財を貪欲に奪っていった日帝は、壁画は剥がして持って行けなかったようだ。しかし、古墳内に副葬品として、置いてあった装飾品や古鏡、刀剣、土器などの貴重な遺物はそっくり持ち去った。
その上、壁画に悪辣な被害を加えた事実がある。それは自国の壁画保存の技術を考案する目的で、一つの高句麗壁画を選んで実験材料に使ったことだ。水 や薬液を振りかけて傷みの具合を試してみるという文化財破壊の蛮行を行った。日帝は朝鮮文化財の保護と学術調査の為と称して「遺蹟調査事業」を行ったが、 それは朝鮮文化財の略奪と破壊の目的を遂げる為の大義名分にすぎないことがこの一事からも暴露されている。
証言によると奈良の法隆寺金堂壁画の保存法を目的としたものと言う。
皮肉なことに、金堂壁画は1949年に火災のため、ほとんどが焼失した。じつは焼失した「釈迦浄土図」や「十一面観音図」などは日本人が描いたものではなく、西暦610年に高句麗からの渡来僧曇徴が描いたものである。
曇徴は日本に彩画の方法や硯、紙、墨などの製造法を伝え、日本絵画の始祖とされている人物である。このことは日本人学者も一様に認めている。
1884年の「大日本美術新報」・14号の「高句麗僧曇徴略伝」には「わが国絵画の鼻祖と称される高句麗僧曇徴」と記されているし、「朝鮮」第40 号では鮎貝房之進が「仏教と共にわが国に輸入(渡来)し、日本絵画の源となったのは明らかな事実」と断言している。大岡力は「朝鮮」第3巻2号で曇徴をは じめ、渡来人画家の仏教絵画にたいし、「仏画の精巧なる描写、優麗なる色彩」と絶賛し「絵画がその時代の文化の程度を現すものとすれば、当時の朝鮮の文化 は非常に進歩していたことを推想することができる」と文を継いだ。
(南永昌/文化財研究者)