きょう2018年8月15日は、73回目の終戦の日。
戦争で、母はふたりの兄をなくし、祖母はふたりの息子を亡くした。
わたしは、おじさんたちの顔も知らない。
その記憶を語る人ももういない。
でも、
いつも仏壇の前で手を合わせ涙を流していた
祖母の小さなうしろ姿をわたしは忘れない。
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家の西にわい性の百日紅が咲いています。
最後の白鹿の子ユリの花。
背丈より高く咲いていたのですが、
雷雨に打たれて倒れてしまいました。
雨のあとの夏水仙。
クレマチスの花後。
このクルクルの種がかわいいのですが、
調べてみたら、クレマチスの花後は
できるだけ早く剪定(切り戻し)したほうが、
秋にも花が咲くかもとれないし、株も元気に育つそうです。
ちょっと遅いですが、切り戻してみましょう。
種なし金柑ちびまるは、今年3度目の花が咲いています。
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戦争で、母はふたりの兄をなくし、祖母はふたりの息子を亡くした。
わたしは、おじさんたちの顔も知らない。
その記憶を語る人ももういない。
でも、
いつも仏壇の前で手を合わせ涙を流していた
祖母の小さなうしろ姿をわたしは忘れない。
社説:戦後73年とアジア 未来へ向け記憶を紡ぐ 2018年8月15日 朝日新聞 日本が戦争に敗れて、きょうで73年を迎えた。 この歳月を経てなお、日本はアジアでの和解を成し遂げていない。日中両政府の関係が上向くにつれ、表面上は見えにくくなっているが、民衆の間では複雑な感情が今も広く残る。 侵略や植民地支配の記憶という「負の遺産」の風化をこのまま待つという姿勢では、未来志向の関係は築けない。アジア太平洋で日本が果たすべき役割を考え、積極的に貢献することも和解の歩みに必要だろう。 政府が、そして社会と個人がそれぞれの立場から、平和への発信を強めていきたい。 ■危機の予感が現実に 「私に一つの危機の予感がある」。終戦を上海で迎えた作家の堀田善衛は1959年、将来の日本と中国の関係について、そう書いた。 歴史認識などをめぐる「双方の国民の内心の構造の違い」が、「ちょっと想像出来ないようなかたちの危機をもたらすのではないか」と案じた。日本の中国侵略を経て、「われわれの握手の、掌(てのひら)と掌のあいだには血が滲(にじ)んでいる」とも。 日中の国交正常化はそれから13年後の1972年。ソ連という共通の脅威が冷戦下の両国を結びつけた。中国政府は戦争の被害感情より外交利益を優先させ、日本は賠償を免れた。 為政者にとっては成功物語だっただろう。しかし和解の重要な土台となる、中国の人々の思いは置き去りにされた。 その封印が解かれたのは冷戦後の90年代以降である。中国共産党が進めた愛国主義の政治教育も重なり、噴き出した反日感情が今もくすぶっている。 堀田の言う「危機の予感」とはこれだったのだろうか。 ■地域の発展に向けて この6月、初の米朝首脳会談が開かれた。両国が戦った朝鮮戦争に至る経緯を振り返れば、南北分断の背景に日本の植民地支配があることに気づく。隣国の人々には、米ソによる分断がなぜ日本でなく、自分たちなのかとの思いがある。 一方で、日本は戦後、アジアの平和と発展のために多くの仕事をし、信頼と評価を得た。カンボジア和平などに多数の日本人が関与し、発展途上国での無償技術支援も進めてきた。 かつて軍靴で蹂躙(じゅうりん)した地域の発展に、息長く携わることは、和解のプロセスにも役立つ。 アジアの秩序はいま過渡期にある。米国と中国の2大国が力を競いあう場面が増えている。もう一つの大国インドの成長も加わり、競合と多極化が進む大変動の時代に入った。 この潮流を見据えたうえで、これまでアジアに関与してきた日本がもっと建設的な役割を果たす道があるのではないか。 例えば、日中韓の自由貿易など経済的な地域協力づくりだ。すでに、米国が去った環太平洋経済連携協定(TPP)を維持する実績をつくった。国際ルールをふまえた多国間枠組みの実現にもっと努力できるはずだ。 さらに中国の提唱する「一帯一路」構想への意義ある関与を探りたい。構想は、世界経済に資する歴史的事業にも、中国の覇権拡大の道具にも、いずれにもなりえる。日本は、アジア全体の浮揚こそが世界と中国の利益になることを説くべきだ。 インド、豪州や東南アジアとの連携も、深めていく必要があるだろう。アジア諸国から見れば、日本は今でも抜きんでた経済大国であり、中国とは一線を画した自由主義国でもある。日中両国は競うのではなく、互いにアジアの発展に貢献する共通の理念を掲げたい。 ■一人一人と向きあう そうした政府間の関係や取りくみは大きな影響を及ぼす一方、歴史の和解を進める主役はあくまで個々の人間である。 歴史認識について、国からのお仕着せやステレオタイプではなく、自由で多様な見方や意見をもち、交流する。そのための民主主義の成熟も欠かせない。 近年、加害者と被害者の市民との関係の複雑さを考えさせたのは、オバマ米大統領による2年前の広島訪問だった。 大きな癒やしを得た人と、謝罪なき政治的演出と見た人と。地元の受け止めは交錯したが、それでも歴史をめぐる議論に一石を投じたのは間違いない。 あのときオバマ氏と抱擁した被爆者の森重昭さん(81)は言う。「大事なのは、人間として考えることではないですか」 今やアジアから日本を訪れる観光客は年間2400万人。歴史や文化をめぐる研究者や留学生の交流も裾野を広げてきた。個人の発信がネットを介して各国で反響を呼ぶ時代、生身の人間同士、平和を語りあう機会をもっと増やせないか。 自らの過去を美化することはできない。しかし、将来を変えることはできる。平和と繁栄と人権を尊ぶ目標を各国の国民とともにし、アジアの未来への新たな記憶を紡いでいく。そんな日本の姿を築いていきたい。 |
社説:平和をつくるために 終戦の日に考える 2018年8月15日 中日新聞 きょう八月十五日は戦没者の方々を追悼する日であり、また同時にどうしたら戦争をなくせるかを考える日でもあるでしょう。二つの事例を引こう。 一つめは、核兵器に関することである。 英国とアルゼンチンが戦ったフォークランド紛争ではこんなことがあったという。 英国の駆逐艦、シェフィールドが、アルゼンチン軍の発射したフランス製ミサイル・エグゾセで撃沈された数日後の一九八二年五月七日、フランスのミッテラン大統領はサッチャー英首相から電話をもらったそうだ。 核持つ国の絶対優位 ミッテラン氏はかかりつけの精神分析医アリ・マグディ氏のところへ予約より遅れて到着し、言い訳した。 <すみません、先生。鉄のご婦人との諍(いさか)いを収めねばならなかったもので。我々がアルゼンチンに売却したミサイルのレーダーを無効化するコードを渡さなければ、四隻の原潜でアルゼンチンを核攻撃すると脅すんですから…核戦争を引き起こすなんて。私は引き下がりましたよ>(東京大学出版会UP4月号、長谷部恭男氏「巡洋艦ベルグラーノ撃沈 一九八二年五月二日」より要約) 精神分析医の著作(日誌)にある話で電話の有無、内容は間接情報であって真偽はわからないが、ありえる話である。 そうだとすれば、核兵器は実際には使わないにせよ、核の力をもって英国は戦争を有利に導いたことになる。 過去の話にせよ、核の威力は絶大で、核保有国は非核保有国に対し絶対的優位にあるわけだ。 その威力は少なからぬ国々にひそかに核を持ちたいと願わせ、実際に保有国を誕生させた。 反核のうねり始まる 北朝鮮もその一つである。核の威力をもってアメリカを振り向かせ、独裁体制の保証という果実を得ようとしている。 それと正反対の世界的動向が非核保有国が集まって進める核兵器禁止条約である。核兵器の開発・保有・使用などを法的に禁止し、昨年国連で採択された。ただし各国の批准は進んでいない。 それでも核兵器に対する人々の考え方は、徐々に変わってきているのではないか。持つ・持たないの不公平、非人道性への倫理的拒絶、人類の破滅。サッチャー氏の逸話などは過去のものとし、核時代を非核の時代へと反転させる意思を世界は持つべきだ。そのうねりは始まっている。 もう一つは、私たち自身のことである。 敗戦の後、憲法九条をマッカーサー司令官とともにつくったとされる首相幣原喜重郎は回想している。一九〇五年九月、日露戦争の講和直後のこと。 ロシアから賠償金もとれなかった講和を屈辱外交と非難する東京・日比谷の大会から流れた人々が、政府への反発から交番、電車を焼き打ちし新聞社も襲った。実際は政府には戦争継続の力はもはやなく、一方国民は徴兵と戦費のための増税で苦しんでいた。 当時幣原は外務省勤務で、講和全権の外相小村寿太郎から以下の述懐を聞いている。 小村には国民の反発は予期の通りだったが、故郷宮崎県飫肥(おび)の村に帰って驚いたそうだ。各所に小さなテーブルが出て酒が一杯ついである。小村の酒好きは知られている。一人の老人が小村の前にやってきて言った。 「東京では大騒ぎしたそうですが、騒ぐ奴(やつ)らは、自分の子供を戦争にやった者ではありません。私は子供が三人あり、そのうち二人は満州で戦死し、残った一人も戦地におります。みんな犠牲になるものと諦めておりましたが、お陰(かげ)で一人だけは無事に帰って来ることと思います。全くあなたのお陰でございます」 老人は戦争を終わらせた小村の洋服にすがって泣き、同じ光景が二、三あったという(幣原喜重郎「外交五十年」より)。 外交官の苦悩が語られ、同時に戦争のもたらす根源的な悲しみが語られている。 危うい耳に心地よい話 戦争は政府にとっては政治であり勝敗であるのだろうが、家族や個人には人の生死でしかない。 国家を主語とした威勢のいい話は一時耳に心地よいかもしれないが、注意せねばならない。近隣国への反感をあおる政治家の言葉はよく聞き分けねばならない。 戦争より外交である。武力より対話である。 戦争が多くの人の命を奪うのなら、外交は多くの人の命を救うといってもいい。 何も理想を言っているわけではない。反戦は普通の人々の現実である。国家を平和へと向けさせるのは私たちの判断と意思である。 |
朝日新聞終戦の日を迎えて 記録を尊ぶ国でありたい 2018年8月15日 毎日新聞 終戦からすでに73年の歳月が刻まれ、来年5月には昭和、平成に続く戦後3番目の年号が始まる。 とはいえ、8月15日はいまだに私たちにとって羅針盤であり続ける。日本という国の仕組みを根底から見直す原点になったからだ。 問われたことの一つに、集団無責任体制というべきものがある。政治学者の丸山真男が「これだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がどこにも見当たらない」と評した精神構造だ。 国民に極端な忠誠を求めながら、国家中枢で組織防衛と状況追認に明け暮れていたのが戦前日本だった。 防衛省防衛研究所に併設された戦史研究センターに「市ケ谷台史料」と呼ばれる書類が保存されている。 和紙に1枚ずつ貼り付けられた史料には、焼け焦げた跡が残る。破れて判読ができないものも多い。 寸断された責任の系譜 これらは、敗戦前後に旧陸軍が焼却命令を出した書類の燃え残りだ。1996年4月、東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷(かみやしき)のあった市ケ谷駐屯地(現防衛省)を発掘調査中に地中から発見した。 東条英機が天皇に裁可を求めた原簿、ポツダム宣言に関する憲兵司令部の動向調査、原爆投下直後に広島から打電された「特別緊急電報」などが目に付く。ほとんどはまだ専門家の研究が進んでいない。 ポツダム宣言の受諾が決まった直後、陸海軍や内務省で機密書類の組織的な焼却が始まったことはよく知られている。「大東亜戦争全史」によると「焚書(ふんしょ)の黒煙」は45年8月14日午後から16日まで上り続けた。 ただし、これほど大規模な焼却だったにもかかわらず、意思決定の記録は残っていない。命令書も同時に焼却されたためとみられる。 わずかに九州の陸軍部隊が受電した電報に痕跡がある。「重要ト認ムル書類ヲ焼却スベシ。本電報モ受領後直チニ焼却」というものだ。 一連の焼却命令は、将来の戦犯裁判に備えたのだろう。とりわけ天皇に不利な文書を葬る意図があったことは想像に難くない。日本より早く降伏したドイツではすでにニュルンベルク裁判の準備が進んでいた。 同時に、実際はつながっているはずの軍官僚の責任の系譜も次々と断ち切られた。満州事変以降、15年におよぶ戦争遂行の検証に障害となって立ちはだかったのである。 戦後、役人は「天皇の官吏」から「国民の公僕」に変わった。なのに私たちは今年、過去に引き戻されたような行為を目撃させられた。 言うまでもなく財務官僚による公文書の改ざんと廃棄である。 背後には当然、権力者への迎合と自己保身があったと考えられる。ところが、麻生太郎財務相は「動機が分かれば苦労はしない」と人ごとのように開き直った。 野党の追及にいらだつ安倍晋三首相は「私や妻が関与していないことははっきりした」と財務省の調査結果を逆手に取って強弁した。 政府にあって今も無責任の連鎖が続いているように見える。 歴史の総括は事実から A級戦犯を裁く東京裁判は、46年5月に始まった。重要書類の大量焼却は予想通り裁判に影響を及ぼす。存在すべき文書が見つからず、絶対的に証拠が不足したことだ。 日暮吉延・帝京大教授は著書「東京裁判」で「本来なら公文書1通の提出ですむはずの問題がしばしば冗長な宣誓供述書や証言で立証されなければならず、東京裁判が長期化する要因になった」と指摘する。 記録文書の欠落は、史実よりイデオロギー優先の論争をも招いた。国内の右派は東京裁判を「自虐史観」と批判するが、では戦争責任をどう整理すべきかの提案はない。 事実を共有しない国家、過去を検証しない国家に、共通の歴史認識が生まれることはなかろう。 昨年5月に他界した歴史学者の岡田英弘は、歴史という文化要素を持つ文明と、持たない文明が対立するとき、常に歴史のある文明が有利だと説いた。その理由は示唆に富む。 「歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きている」「歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。出たとこ勝負の対応しか出来ない」(「世界史の誕生」) 為政者は自らを正当化するのに、歴史の審判を待つとよく口にする。それが通用するのは、正確な記録が積み上げられた場合のみである。 |
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