みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

日本ミツバチの蜂蜜がバクハツしそう!?/「民」はどこへ行った 五輪開幕に考える

2021-07-24 23:23:49 | ほん/新聞/ニュース
二回目のコロナワクチン接種の副反応は、
三日目でほぼ収まりました。
自覚としては、初回より軽い感じでした。
とはいえ、暑いので家のなかで過ごしています。

お昼前、珈琲豆を挽くためにミルを出そうとしたら、
袋の下のほうがなんか濡れています。
よく見ると、とろっとしていて水じゃなくて蜂蜜!
横の箱に入れておいた蜂蜜の保存ビンから蜜が漏れだしているようです。
蜂蜜ビンは、厚手のポリ袋に入れてから、
段ボール箱に並べて保存してあります。
ビンを一つ持ち上げてみると、袋の下も、水浸しならぬ蜂蜜びたし。

数年前にも、気温が高い夏にあふれさせたことがあるので、
一つずつ確認しながら、慎重に箱から取り出してみると、
去年の春と秋の蜂蜜がビンの蓋の隙間からあふれています。
中の圧が高くなって、はちみつが漏れてきたようです。
濃厚なはちみつは無事だったので、糖度が低い蜂蜜が噴出してきたようです。

ホーローのトレイの中で、ビンを袋から出して、
蓋を開けるとじゅわっと爆発しそう。
濃さはあるのでジワジワとせりあがってきます。
急いで空のビンにあふれてくる蜂蜜を移しました。

袋に残った蜂蜜ももったいないので、数時間かけてたれ蜜を回収。
かき混ぜて空気を抜いておいたら、夜には落ち着きました。
次から、蜂蜜はビンに七分目くらいに入れることにしましょう。


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  社説:「民」はどこへ行った 五輪開幕に考える 
2021年7月24日 中日新聞

 きのう開幕した東京五輪の無観客映像を目にして、一抹の寂寥(せきりょう)とともによみがえる四十年前の記憶がありました。一九八一年十月二日付。私ども中日新聞社の社説です。

 八八年夏季五輪の開催地選考で韓国ソウルに敗れた「幻の名古屋五輪」への論評でした。

 「だからいったではないか」

 名古屋の地元紙にしては、その見出しが、やけに冷めた物言いだったのを思い出します。

 なぜこんな見出しになったか。当時の紙面をたどると、現代に通じる民主主義と政治のあるべき形が見えてくるようです。

 五輪招致が名古屋で動きだした七〇年代後半、日本経済はとうに低成長、財政難の下り坂を降り始めていました。けれども招致当局の自治体は旧態依然。五輪カードを使って地域の振興、開発を有利に運ぶもくろみでした。

万事知らしむべからず
 環境面などから反対運動も出ていたが、政治の思惑を先行させる当局に取り合う余地はない。「何のための五輪か」。まともな理念はなく、説明もない。市民は徐々に冷めていきました。

 市民が五輪に燃えないのは「理念がはっきりしないから」と考えた自治体はある日、東西の文化人を集め「理念を語る会」を開きました。だがこれも「市民自身が決めること」と一蹴され、市民不在への批判が沸騰したそうです。

 「一事が万事これ式で『よらしむべし、知らしむべからず』ではたまらない」。社説は招致後の社会分断をも見通し、民主的な招致プロセスを求め続けました。

 そして得た教訓が「民主主義の原点を忘れた思い上がりの運動は結局成功しない」のだと。これが名古屋落選の一因であり、社説の真意でもありました。

 さて、あれから四十年後の今に刺すこの成句。「民は由(よ)らしむべし知らしむべからず」とは−。

 「論語」の原意から転用した徳川家康の解釈は「為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民に分からせる必要はない」とされます。いわば封建時代の政治原理が、今日再び東京五輪にも重なります。

 開催都市・東京でコロナ禍の感染がまさにピークを突く中、迎えた開会式でした。会場に「民」の姿はない。直前でも「五輪で感染拡大」を不安視する国民が九割近く。何もかもが異常です。

 なのに大会当局は一貫して中止論議を封じ、まず開催ありきで突き進む。「何のための五輪か」。納得いく説明はありません。

忘れるわけにはいかぬ
 六月初め。政府の専門家が、コロナ禍の現状で五輪開催は「普通ない」が、開くなら「何のためにか」説明が必要と公言した時。担当閣僚の反応が強烈でした。

 「(政府側は)スポーツの持つ力を信じてやってきたが、全く別の地平から見てきた言葉をそのまま言っても通じづらい」

 専門家が代弁した国民の素朴な疑問は「別の地平」からの遠吠(ぼ)えだったのか。これぞ「知らしむべからず」の真骨頂でした。

 それにしてもこの政治と「民」を分断する壁の厚さはどうか。

 ひとたび選挙を経て権力を手にすれば、あとは民意との信頼関係を遮断。批判の声は虚偽、隠蔽(いんぺい)でかわし、国民が忘れるのを待てばいい。五輪に限らず、ここ何年も私たちが目の当たりにする「民」なき政治の不条理です。もはや真の民主主義ではありません。

 政界では、今秋の衆院総選挙に向け五輪成功を浮揚力にしたい、との政権の思惑が語られます。それ故か、五輪優先でコロナ対策のちぐはぐが続き、陰で幾多の人々の命や店や職が失われました。ただこの失策も、五輪選手の活躍に熱狂する裏で、国民は忘れてくれるとの読みがあるようです。

 しかし大会の熱狂は別として、私たちは忘れるわけにはいきません。何も知らしめられず政治の犠牲となった「民」の無念を。忘れたら、また「知らしむべからず」の闇夜が続くからです。

 思えば四十年前のあの社説も、民意を蔑(ないがし)ろにする権力の思い上がりを戒めていました。

 忘れぬことによって、真の民主主義の底力を示し、ついには「封建時代の原理」を終わらせなければなりません。いろいろあったこの東京五輪をこそ奇貨として。 


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