早池峰山を登りながら後ろを振り返ると薬師岳の山容が迫ってくる。柳田國男の『遠野物語』はこんな山地を舞台にした説話を採集したものである。麓の集落から山地に分け入ってそこでさまざまな不思議が言い伝えられている。「山の神」もそんな話のひとつだ。
山の頂に祠がある。その近くに杉の古木に囲まれたがらんとしたお堂があった。その堂の前には山神と彫った石塔が建っている。ここに山の神が来る、と言い伝えられている所だ。ある若者が柏崎に用があってさる夕方この堂のあたりに通りかかった。すると、山の頂から背の高い人が降りてきた。誰だろうと、林の木を越えてその人めがけて走り寄って、道の角でばったりとその人に出会った。
先方の人は人が来ると思っていなかったらしく、大層驚いた風である。若者を見る顔は非常に赤く、その目は驚いて大きく見開いている。その顔を見て若者は、これこそ山の神に違いないと思い、後を見ずに走って柏崎の村に走りついた。
遠野郷には、山神塔がたくさん建っている。山神の祟りを受けた場所に塔を建て、神をなだめるために建てたとのことである。薬師岳には、そんな山神もいても不思議ではない懐の深い山地である。はるばると、山形の地からこの山地を訪れた者を歓迎して、天候を和らげ、水の嵩を減らし、ありとあらゆる可憐な花を咲かせ、時おり霞みで日よけを作って歓迎してくれたのかも知れない。