常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

山上憶良

2013年08月20日 | 万葉集


万葉の歌人、山上憶良は数奇な生涯を送った。生まれは朝鮮半島百済、660年のころに生まれた。当時の朝鮮半島は、新羅と百済が覇を競っていた。663年、唐と結んだ新羅は百済の征服に成功する。憶良は祖国を失う。百済と日本は同盟を結んでいたから、その支配階級であった人々の多くは日本へ亡命した。憶良の父であった憶仁は近江に住んだ。医者であったので、その医術で一家の生業としたのであった。憶仁は686年に死亡した。憶良が27歳のときである。

父を亡くしてから、憶良はどうして生きのびたか定かではない。赤貧の暮らしであったであろう。万葉集に収められている憶良の歌を見ても、その赤貧の暮らしが時おり顔を見せる。憶良に転機が訪れるのは、遣唐使の書記官に任命されたことだ。当時の航海技術では、船がその役割を果たして戻ってくる確率は低い。成功すれば唐の文物を持ち帰ることができるが、失敗すれば海の藻屑だ。だが、どうやら無事戻ることができた憶良はようやく日の目を見る。

その漢字の知識により、役人として出世していった。伯耆の国や筑前の国で長官を務め、62歳のときには皇太子の教授の地位にさへ就いた。百済から渡ってきて、当時の知識階級のなかで勉学に勤めたことがこの幸運をもたらしたのであろう。だが筑前から帰ってから、病が憶良の身体を蝕んでいった。

親友の藤原八束が、手紙を書いて病床の憶良を見舞った。憶良は見舞いの口上にお礼を述べた。だが、憶良の目からぼろぼろと涙が溢れた。静かな口調で歌を詠んでその時の思いを吐露した。

士(おのこ)やも空しくあるべき万代に 語りつぐべき名は立てずして 山上憶良

男子たるもの空しく朽ち果ててはならない。後の万代まで語り継がれるような名を立てないで」。病を得た憶良が流した涙は、自分の名は語り継がれるようなものではないことへの悔しさを秘めていた。だが、憶良の名は1400年の後のいまに至る世まで、語り継がれ、読み継がれている。
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