古木がなかば朽ちかけて、痛々しい姿で佇んでいる。その脇には、勢いのある若木が枝葉を茂らせている。こんな木を見ていると、幸田文『木』の一文が思い出される。
「木は口もきかず歩きもしない慎み深いものだが、なじみ親しむばかりが木との交際ではない、地を隠すもの、広さをまどわすものとしても、心得ていなくてはなるまいと思う。生きていのちのあるものは大概が、どこか、なにか、はたからは思いのほかの、あやしい一面をもっているらしいが、はからずも樹木の惑わしを垣間見たような気もした。これだから少くも一年四たび、四季の移り変りを知るのは、ものの基礎だといえる。」
木を愛するものの含蓄に富んだ言葉である。新緑から、いま紅葉を目前にして木の姿はその命の本質を見せている。こんな木を見ながら、口をついてでる言葉がない。じつに淋しい感じである。石川啄木の歌にこんなのがある。
森の奥
遠きひびきす
木のうろに臼ひく侏儒の国にかも来し
毎日、眼前に仰ぎ見る山のなかに、こんなにも豊かな木々の世界がひっそりと広がっている。