常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

シクラメン

2015年12月15日 | 


この季節になると、シクラメンの鉢の花をよく見かける。そのけがれのない花に目を奪われる。白の花も気高い雰囲気をかもし出す。この花の名はどんな由来があるのか、つい気にかかる。ものの本によれば、ギリシャ語のSYCLE、まるいからきているとのことだ。花が円を描くように丸く咲くことに起因しているのだろうか。よく分からない。

ところが、豚の饅頭というのが、日本で早くつけられた名前らしい。こちらは、球根を豚の餌にすることから、sou blead豚のパンを日本語に訳して豚の饅頭なったのだという。花のゆたかな気品をみると、この名はいかにも似つかわしくない。

日はすでに暮れた。森は神秘的だったが

子牛の群れの足元に シクラメンの花が真紅に咲き乱れ、

一樹一樹つばらかに 樅の喬木が残照にてりはえていた。

『マルテの手記』を書いたオーストリアの詩人リルケは、シクラメンの花をにこんな風によみ込んでいる。シクラメンは冬に咲く花であるが、他の花と同じように日光を好む。

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浅井忠

2015年12月15日 | 


明治の洋画家浅井忠がこの世を去ったのは、明治42年12月15日のことである。享年52歳である。今の世であれば、これからという年齢である。明治8年、イギリスから帰った国沢新九郎が、東京麹町に洋画塾を開いていたが、千葉の佐倉に生まれた浅井忠は、この塾の門を敲いた。ここでは外国人の教師が教えていたが、教師と生徒の関係が悪く、浅井忠は塾生11人とともに退学した。

この退学性たちが十一会という名で、洋画の研究を続けた。昼間はモデルを雇って写生の勉強をし、夕方から相撲や剣術で身体を鍛えるというやり方で画家の品格向上を目指すユニークな存在であった。ところが、この時代の意識の揺れは大きく、絵画の世界にも様々ことが起こる。なかでも、洋画を排斥し伝統の日本画を守るという風潮が起きた。浅井忠はこのような風潮のなかで苦労することになった。挿絵の仕事や絵手本づくりでやっと糊口を凌いだ。

明治19年に東京府工芸共進会に、6尺に及ぶ大作の洋画30枚を出品して世に認められることになった。美術学校に洋画科が設けれると、そこで教授となり、フランス留学を命ぜられ、帰国すると京都工芸学校の教授となった。画風は自由自在で、何物にもとらわれない、人格がそのまま絵に現れるような闊達なものであった。油彩よりも水彩で、筆の扱いも無造作で、下絵なしに絵にとりかかることが多かった。



浅井忠は友達と音楽の話になって、笛、尺八、三味線と好みをいううなかで木魚と言って周りを驚かせた。秋の林のパラパラと葉の散る音がして、そこへ寺で木魚を敲く音が聞こえてくる、それがいいというだ。友人は忠のことを木魚先生と呼ぶようになった。これを自らの号に選んだ。
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