常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
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藤原家隆(2)

2015年12月04日 | 


「寛喜元年、女御入内の屏風」という詞書は後堀河天皇の女御として、前関白九条道家の娘竴子が持参する屏風絵に添えた和歌「風そよぐ奈良の小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける」に付けられたものである。屏風もその絵も、王朝のみやびを残しているかに見えるが、この時代はそんな生易しい時代ではなかった。

そもそも、後堀河天皇は、承久の乱で鎌倉を討とうしたした後鳥羽、土御門、順徳の三上皇を配流、仲恭天皇も廃位されて、直接乱に関係のなかったとして即位した。このとき後堀河天皇は10歳であった。即位して七年後の寛喜元年(1229年)、竴子は入内したのである。国は戦乱で荒れ果て、それに加えて寛喜の飢饉といわれる異常気象がこの国を襲った。すでに安貞の頃から以上気象による飢饉が続いており、寛喜に年号を改めたのお飢饉が理由であった。藤原家隆は荘園からの、収入を失い、貴族としての生活がすでに成立しなくなりつつあった。

寛喜3年2月には、入内した竴子に男子が生まれる。秀仁親王である。その4月6日に、道家の家で親王の御所始め祝宴が開かれた。こともあろうに、その祝宴に雑人3名ほどが階段を駆け上って乱入し、膳の食べ物を奪うという事件が起きている。京中に盗人が横行し、貴族はもとより、宮中さえにも押し入るという有様であった。道には横死した死骸があふれ、死臭が家のなかに入ってくるという地獄絵図さながらの光景を見せていた。雅な和歌は、この現実から逃れようとしたものようである。

藤原定家は、『明月記』に寛喜の飢饉の惨状を書き記している。6月には、「涼気仲秋の如し」と書き、真夏だというのに、冬の綿入れを着た。「万邦ノ飢饉、関東ノ権勢已下常膳ヲ減ズルノ由、閭巷ノ説耳ニ満ツ」この異常気象は、新星の大爆発という現象が宇宙で起きたためであるらしい。すでに源実朝が暗殺され、北条の時代となって、天皇の権威も地におちた時代である。新古今集の時代は、連歌の時代へと移ろうとしていた。家隆が最後の光芒を放って、和歌の時代が閉じられていく時期にさしかかっていたのである。
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