落合直文
2015年12月16日 | 人
明治の国文学者で教壇に立ち、和歌をよくした落合直文が亡くなったのは、明治36年12月16日のことである。43歳の若さでこの世を去った。気仙沼に生まれた直文は、明治14年に上京して東京帝大国文学科に入学、中退して兵役をつとめたが、その後国文学の教授として教壇に立った。学生に慕われ、名教授の名をほしいままにした。森鴎外と同人となって新声社を結成、共訳詩集『於母影』を刊行。その後浅香社を立ち上げ、与謝野鉄幹などを育てた。
落合直文といえば、想起するのは白菊物語である。「孝女白菊」は西南戦争の時代に行方知れずになった父を探す、孝女の物語であるが、井上哲二郎の長詩を直文が新体詩に直すと、爆発的な流行を見せた。
阿蘇の山里秋ふけて 眺さびしきゆふまぐれ
いづこの寺の鐘ならむ 諸行無情と告げわたる」
をりしもひとり門にいで 父を待つなる少女あり」
年は十四の春あさく 色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわかねども 末たのもしく見えにけり」
父は先つ日遊猟(かり)にいで 今なほおとづれなしとかや」
軒に落ちくる木の葉にも 筧の水のひゞきにも
父やかへるとうたがはれ 夜な夜な眠るひまもなし」
わきて雨ふるさ夜中は 庭の芭蕉のおとしげく
なくなる虫のこゑごゑに いとどあはれをそへにけり」
かゝるさびしき夜半なれば ひとりおもひにたへざらむ
菅の小笠に杖とりて いでゆくさまぞあはれなる」
少女の生い立ち、物語の展開、兄による救済、そしてハッピーエンドの大団円至る新体詩の調べは、当時の読者の涙を誘わずにおかなかった。
また落合直文は、子供が好きであった。死の3年前、大病で床についている直文の様子を見にきた我が子の様子を歌に残している。
父君よけさはいかにと手をつきて問ふ子をみれば死なれざりけり
明治の時代の空気が伝わるさわやかな歌である。直文は萩の花を好んだ。庭には萩の花をたくさん植え、直文の屋敷は萩の舎と呼ばれた。
萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきどころこゝと定めむ