夏目漱石に『夢十夜』という小品がある。何かの拍子に思い出すのは、決まって背中に負ぶった子が、急に石のように重くなる夢である。本箱の奥の方から引っ張り出して読んでみると、その内容にはほとんど、記憶のかけらさえもない。第一夜では、女が、(夢を見ている本人とどんな関係があるのか分からないが)登場する。そして「私は死にます。」と告白する。病気をしたようでもないし、血色もいい。寝床に横たわっている女に、「死ななくといいじゃないか。」というが「やっぱり死にます。死んだら真珠貝の貝殻で穴を掘って埋めてください。そして天から落ちてくる星のかけらを墓標にしてください。」「その墓の前で待っていてください。きっと会いに来ます。百年待てますか。」と言い残して女は死んでしまった。
女に言われた通り、墓をつくり、星のかけらで墓標をたてて、墓の前に座った。東から太陽が出て、西に太陽が沈む。最初は、太陽を沈むのが何回か、数えていた。夢の中では現実より、太陽の回るのは早い。けれども、百年とは、気の遠くなる長さだ。そのうち、回数を数える意識が薄れて、何回になるのかが分からなくなった。まだ百年は来ない。女は自分を騙したのだろうと思い始めた。そうすると、墓のある地面から青い茎がするすると伸びてきて、自分の胸のあたりまできた。その茎の先端にある蕾がふっくらと花びらを開いた。それは、真っ白いユリで、花の先で堪えられぬような芳香を放った。目の前でユリは、重みでゆらゆらと揺れた。ユリの花には冷たい露が滴っていた。自分はその白い花びらに接吻した。百年が経って、女が自分に会いにきたのが、はっきりと分かった。
ここを読んで、そのシーンが玄関に飾ったカサブランカの花に重なった。読書とは、読んだものの大半を記憶の外においやってしまい、その断片だけがわずかに、脳裏にかかっている。そのかけらの所在から、手にいれてものを再び探しもとめて、昔の本を手にするという、長く果てしない営為である。