梅颸夫人
2015年12月03日 | 人
梅颸夫人は、頼山陽の母である。名は静子、大阪の儒者で医家であった飯岡義斎の娘に生まれた。19歳になって父の知り合いの媒酌によって、大阪に塾を開いていた頼春水に嫁いだ。この年春水は34歳の男盛りであった。15歳も年が違う、すでに儒者として名声のある春水に嫁ぐことは、若い女にとっては大変ことであったろうと思う。嫁いだ年の翌年、新夫婦のもとに春水の父亭翁が訪れている。二人は父を伴って京都の旅を楽しんでいる。梅颸はこのときのことを、日記に書き残している。酢茎や筍などを、春水の友人からご馳走になった。
山陽を産み落としたのは、この年の暮れも押し詰まった12月27日のことであった。春水は浅野家のご儒者となり、一家は広島に住んだ。そして春水のみが、殿様のいる江戸詰めになり、梅颸と山陽は広島に残った。父のいない広島で、梅颸は山陽を育てた。20歳になったばかりで、子を育て留守を守って一家を切り盛りすることも容易なことではなかった。日々の出来事を日記にして、江戸の春水に報告した。この日記は山陽の日々が細かく書かれていたので、山陽の生い立ちを知るまたとない資料になっている。
幼児時代の山陽は、ひよわで癇癖が強く、母の手がかかる子であった。父は厳しく山陽に接し、江戸からもこまかく生活の指針を言って寄越した。年頃になって、山陽は父の言いつけを守ろうとせず、京都出奔、帰国監禁、妻の離婚廃嫡、茶山塾の塾頭になるも再び京都出奔と梅颸夫人を安心させることはなかった。厳しく接する父とそれに反抗する山陽との間で、どれほどの苦労を重ねたであろうか、察するにあまりがある。
文化13年になって、春水が死去した。京都で塾を開いていた山陽は、この頃押しも押されもせぬ儒者であり漢詩人になっていた。若いころから心配をかけ通しだった母への思いは強まる一方であった。そんな心情を詠んだ漢詩がいくつも残されている。
母を思う 頼山陽
秋風吾を吹いて冷やかなり
還吹いて木葉を飛ばす
吹いて故園の樹に到るも
侵す莫かれ慈母の衣を