青空の歳末となった。冬至を過ぎて心なし、陽ざしが強くなったような気がする。雪が多かった昨年に比べると、朝屋根にうっすらと雪を見るぐらいの冬景色だ。滝山の雪が、やっと青空とのコントラストをなしている。一陽来復とは、易で陰暦10月に陰気が最大になり、冬至に至って陽気が生じ始めること言う、と漢和辞典が説明している。今年は、ことの他の暖冬で、この言葉がぴったりの季節の巡りである。
中国には古い言い伝えがある。水の神に不才の子があった。この子が冬至の日に死んで疫病神になったが、なぜか赤い豆を恐れたという。そこで、人々は小豆の入った粥を炊いてお祓いをするようになった。こんな言い伝えが、日本にも入って来て、冬至には小豆カボチャを炊く風習が生まれたのかも知れない。だが、小寒から大寒を過ぎ、立春に至るのはまだまだ先である。
内に示す 沈受宏
歎ずる莫れ貧家歳を卒うるの難きを
北風曾て過ぐ幾番の寒
明年桃柳堂前の樹
汝に還さん春光満眼の看
清の詩人沈が、歳末に旅先で妻に送った詩である。貧しい家で、歳末に夫の帰りを待つ妻に、詩のなかで、春光のなかに咲く、桃や柳の花の景色をプレゼントした。「北風 幾番の寒」と「春風 満目の看」との対比、明暗を強く打ち出したところがこの詩の眼目である。