三国志で劉備と争った魏の曹操には、息子が25人いた。そのなかで傑出していたのは曹植である。父の問いにいつも即答し正鵠を得ていた。曹操は聡明な植をを寵愛し、兄をさしおいて後継に植をと考えたことも度々であった。気が収まらないのは長男の曹丕である。地味な兄ではあったが、取り巻きの必死の擁立運動で、後継争いは曹丕に軍配が上がった。曹丕が太子となるのは建安22年(217年)のことである。この年、曹植は27歳であった。太子になっても、曹丕にとって植は目の上のたん瘤のような存在であった。あるとき、曹丕は植に難題をふっかけた。「七歩歩くうちに詩を作れ。できなければ死刑にする。そう言われて作ったのが「七歩の詩」である。
七歩の詩 曹 植
豆を煮るに豆萁を燃く
豆は釜中に在りて泣く
本是れ同根より生ず
相煮る何ぞ太だ急なる
豆を自分に、豆萁を兄に例え、同じ兄弟なのになぜこんな辛い仕打ちをするのか、と遠回しに非難する詩を作った。これを見て、曹丕は深く恥じ入ったと伝えられている。だが、曹植の文集にこの詩は見えず、後世の人の偽作らしい。だが、魏の王朝に、この兄弟の詩のようないやがらせがあったことは確かである。日本詩吟学院の教本に、曹植(そうしょく)を「そうち」と読んでいるが何故であろうか、手元の三国志関連の本をみてもそうした記述はない、ちょっと納得できない。