年金生活に入ると、人はやたらに趣味を持ちたがる傾向にある。昨日、ある人と話していたら、「今度、俳句を始めてね」という。聞いて見れば、オカリナ、居合、剣舞、詩吟と指折り数える。「少し、間口を広げ過ぎるんじゃないの」というと、「どうせどれも中途半端さ」と意に介す風もない。
陶淵明に「無絃の琴」という故事がある。淵明は音楽に疎かったが、絃の無い一張りの琴を持っていた。酒を飲んでいい気持ちになると、この琴を爪弾く真似をして、自分の思いを寄せていたという。おそらく、音のでない琴を自分の耳で聞き、その無音の世界に遊んだのであろう。
琴は陶淵明の時代には、多くの人が琴をかなで、世に聞こえる琴の名手もたくさんいた。世俗を離れ、隠逸の世界に身を置く高潔な隠士の象徴がこのことであった。この故事から、「声なきは声あるに勝る」というような成語も生まれた。音楽の最高のすばらしさは、「無声の楽」つまり沈黙の美にある。心眼を持つ者にとっては、「無絃の琴」によって琴中の趣きを知ることを最高の趣味とした。現代の我々には、とうてい届きそうにない境地である。