イシグロ作品は最後にクライマックスがやってくる。これで3作を読んだに過ぎないが、なかでも
『忘れられた巨人』の最後のシーンは一番印象に残った。このシーンについては後に触れることにして、小説のモチーフになっているのは「人間の忘却」である。いつか見た宮崎駿のアニメ映画「もののけ姫」を彷彿とさせるファンタジーの手法で、クエリグと呼ばれる空想の動物(雌の龍)が登場する。この龍が吐く息によってイギリスの島に棲む人々は記憶を失うことになった。
小説の主人公はブリントの老夫婦アクセルとベアトリスである。この夫婦もまた龍の息のために記憶を失い、ひとり息子の所在さえも忘れている。小説には息子の消息を訪ねる、老夫婦のイングランドの旅が描かれる。アーサー王の命を受けてクリエグを退治しようとする老騎士ガウェイン、サクソン人の若い騎士ウィスタン、龍に噛まれた少年エドウィンが主要な登場人物である。何故か老夫婦は、これらの騎士たちの龍退治に付合う運命を背負っている。
二人の旅は、病いを得た妻に対するいたわりの旅である。細い道を先に歩く妻は、つねに夫が離れないかを気にして、「いる?」と声をかける。「もちろんさ、お姫様。」こんな会話で、人気のない荒野の旅が続く。ある川のほとりで、二人は船を漕ぐ船頭から不思議な話を聞く。船頭が船に乗ろうとする夫婦に質問し、行き先の島には二人を乗せるか、一人だけを乗せるべきかを判断するという。老夫婦は船頭に乗船を断られた女が、船頭に悪態をついている場面にも遭遇する。このエピソードは、騎士が龍を退治し、記憶の戻った老夫婦が、息子の墓のある島へ行く最後のシーンの伏線になっている。
この島に行く舟の船頭は、舟が小さく3人は乗れないので、一人づつ乗せると言う。船頭の質問で息子が家を出たのはベアトリスの不義が原因であったことが判明する。ブリントはそれを許し、船頭は二人が島に行けることを明言、先ず妻を島に置いて、引き返して夫を乗せようとする。不安が解消し、安堵する妻。しかし、夫は船頭の呼び声が聞こえないのか、無視して船から離れて行くシーンで小説は終わる。記憶を取り戻すことによって、妻の悲しみは耐えきれないほど大きなものになった。