鎌倉に実朝忌あり美しき 高浜虚子
2月18日(陰暦1月27日)、実朝忌である。この日、鎌倉は大雪、事件は夕方時ころに起こった。右大臣実朝は、鎌倉八幡宮を拝賀、終えて帰路についたが、公暁のために殺された。公暁は僧籍に入っていたが、実朝の甥で猶子にもなっていた。いわば父親殺害事件である。この事件の背景には、北条氏の陰謀があったとされている。
『増鏡』にこの事件の記載がある。「さるほどに石階に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧あらはれ来て、将軍を犯せ奉る、はじめ一太刀は笏に合せ給へども、次の太刀にぞ御首は落され給ひけり、文章博士仲章、因幡前司帥憲も斬られけり。前後に候ひける随兵ども、こはいかなる事ぞやとて、あわて騒ぎて、かたきは誰と知らず。」
大黒柱の頼朝なきあと、鎌倉幕府は血で血を洗う陰謀や暗い政治が続いた。そのなかで実朝は、京のみやびにあこがれ、ひたすら歌の道を追い求め、『金塊和歌集』をのこした歌人であった。芭蕉は、西行以後で歌人として挙げる人はと問われ、即座に実朝と答えている。天稟の歌人実朝は、この日28歳の短い生涯を終えた。
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ 実朝
この歌には詞書きがある。「箱根の山をうち出て波の寄る小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答へ侍りしを聞きて」