今日から2月、節分まで数日となったが、雪雲が垂れこめている。朝日選書に『流域紀行』というのがある。昭和47年に紙面に連載された紀行を一冊にまとめたものだ。取り上げられた川は、信濃川や最上川をはじめ、11河川が選ばれ、文はその川に縁の深い作家が担当している。私の生まれたのは、石狩川の河川敷で、夜には川の流れる音が、家の中にも聞こえてきた。
石狩川の紀行文を書いたのは、吉村昭で、筆は父の死んだ荒川から起こされている。紀行と銘うたれているが、中心テーマとなっているは月形町の歴史紀行という趣である。明治政府は西南戦争などの国事犯を収監する場所を北海道に求めた。道内では、囚人が来ると開拓の労働力として期待され、誘致運動が進められた。調査団の団長として渡道した月形潔は、石狩川の上流シベツプトを最適地として選び、本省へ報告した。
総建坪7386坪の大規模な樺戸監獄が建設された。明治14年9月のことである。初代典獄には、月形潔が任命され、この地を彼の名をとって月形村と命名された。大正8年にこの監獄は閉鎖されるが、その間常に1500名もの囚人を収容、多いときは2500名に達した。囚人たちは、政府に背くものとして、人権を顧みられず過酷な扱いを受けた。
「囚人たちは粗末な衣服と貧しい食事しか与えられず重労働を強いられたため、獄死するものが相次いだ。囚人は内地から続々と送り込まれて、死者数を十分補った。このような獄舎生活が続けられたため、脱獄事件もしばしば発生した。脱獄囚としては、西山寅吉という脱獄常習犯が名高い。
かれは、巡査に追われたとき、板についた五寸釘を足で踏みぬいたまま三里も走ったことから五寸釘の寅といわれた前科8犯の男であった。その間、各地の監獄で脱獄を繰り返し、樺戸集治監が開庁されると、西山は第一陣として月形村に送られたきたが、樺戸監獄でも3回脱獄を重ねている。」
月形の吊り橋から峰延まで16㌔の直線道路が一直線に伸びている。作家は車でその道を走るのだが、その道路を普請したのは、収監されいた囚人たちの手によるものであった。見上げれば丸山が前方に見えるが、そこに植林された杉も囚人たちが植えたものである。そこから吉村は国道を北上し、神居古潭で下りて、そこでも石狩川を見ている。川の水は黒ずみ、都市下水や工場排水で汚染されたいた。