常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

春霞

2019年02月28日 | 芭蕉

写真家の写真集を見ていて、いつも憧れる風景がある。朝、立ちこめる霞の向こうに、連山にグラデーションがかかって見える風景だ。いつか、そんな写真の撮ってみたい、といつも思う。今朝は、高い雲か霞か、判別はつかないが、山の姿はそんなイメージだ。実際にとってみると、山の濃淡がもう少しはっきりしたものであって欲しい。しかし、じっと見ていると、春の風景がそこにある。芭蕉の句を、ふと思い出す。

春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉

貞享2年、「野ざらし紀行」の旅で詠んだ句である。この旅の目的は、奈良のお水取りと薪能を見るためである。初稿は「朝霞」であった。これを、薄霞と変更した理由は何か。安東次男の考証がある。芭蕉は紀行の途次、その土地の俳人と連句の興行をしている。客として芭蕉は、その土地で先ず最初に詠むのが、挨拶の句である。興行を主宰する亭主が、その挨拶に脇をつける。この霞を、朝にするか、夕べにするか、そこは亭主の裁量に任される。朝霞とやってしまっては、亭主の裁量つまり楽しみを奪ってしまう。そこで、はばを持たせたのが薄霞であった。

名もなき山と詠んでいるのも、面白い。当然のことに、そこに住んでいる人にとっては見なれた山であろう。客人にあの山は何、この山は何、と説明する余地を残している。私などは、名があるかどうかも、定かではない。

 

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