ラインの書き込みで、森谷長能先生の訃報を知る。高校の卒業の年、クラスを担任していた英語の先生である。高校を卒業してもう60年の過ぎようとしているのに、これほど長く交流した先生はいない。生まれた年は、1929年と聞いているから、享年90歳である。それにしても、つねに若々しい感じの先生であった。このクラスは、例年同級会を開く。そこに必ず出席されるから、これほど長く先生の謦咳に接することができた所以である。
「今、我が家のルーツを探しているんだよ。」と言われたのは、20年以上も前である。「先祖はどうやら、山形だったらしい。今度、山形に行くよ。」という話をされた。ある年の同級会に、先生は一冊の絵本を持参された。ポプラ社の『おまつり村』である。絵本では山の村に住む人々の、悲しい歴史が語られている。年に一度のお祭りでは、村人はヒョットコ面を被って踊った。山は人々くらしを支える場だった。サムライの世が終わったが、山は役人たちから取り上げられて、木を伐っても罪人となった。
村人が決意をかためて渡ったのが、蝦夷の地である。原生林が果てしなく広がり、びょうびょうと風が鳴っていた。長次郎は、よしここに俺だの村、つくるべ。と言いながら、父からもらったヒョットコ面をつけて、踊り始めた。開拓の厳しい、長い歴史が始まる。長次郎に子ができ、一家でお祭りができるころ、長次郎は死んだ。長次郎の供養は、ヒョットコやオカグラの面をつけて踊ることであった。「おまつり村」がこうしてできた。
絵本の奥書を見ると、長次郎の先祖が天童市市史編纂室の戸籍が残されている。「平民 農 森谷長兵エ 天保12年11月16日生」。この森谷姓こそ、先生が探していた、先祖のルーツであったらしい。一昨年、定山渓で最後のお会いしたとき、先生は、幾度も口にされた。「今井君、ねえ、僕の先祖は天童だったんよ。君の住んでいる所近いんだろ。」