常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

入梅

2013年06月19日 | 日記


雨が降り出したと思ったら、気象庁から入梅の発表があった。栗の花が咲き始めている。それにしても、天気予報というものは、あてにならない。つい数日前まで、あと2週間も雨の降らない日が続くような話が、一転入梅である。雨が降ってよかったのだが、なにも文句はないが、いままでの予報はなかったように、大雨が続いて河川の氾濫に注意というようなアナウンスが流れると、どうなっているのかと思う。

梅の実は少しづつ大きくなっている。地主さんが梅ノ木を3本ほど持っているので、梅干用の梅を分けてもらえまいかと、話してみた。「成っていればいいがな」という返事であった。手入れをしていない梅の木は、突然に実を落としてしまうことも珍しいことではないらしい。梅雨とは、入梅して梅を育てる雨だから、こう呼ばれる。梅だけではない。植物にとってこの時期の雨ほど大切なものはない。

雨が降っても畑にいくのが楽しい。オクラも、茄子も、キュウリもこの雨で一段と大きくなる。それにともなって実がなる。キュウリは一日もがずにおくと太くなりすぎて味が落ちる。ズッキーニの花の盛りである。ようやく雄花をつけたので、筆で受粉を行う。それにしても夥しい雌花だ。これが全て受粉すれば、大量のズッキーニが収穫できる。

きょうの雨は夕方になって止んだ。

夕近み梅雨明かりして湯の村の人声物の音静かに聞ゆ 古泉 千樫

雨の空が明るくなってくるを、梅雨明かりという。まだ日がさすまでには至らないが、山がくっきりと緑を見せている。
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タチアオイ

2013年06月18日 | 


借りている畑のお嫁さんは気さくな人で、知っていることは何でも話してくれる。畑の隅に地主さんがタチアオイを移植した。この花の成長は実に驚くばかりだ。植えて2週間もしないうちに人間の背丈の半分くらいになり、いまでは背丈を追い越してしまった。花の蕾は茎の下の方から先端に向かって交互に付けていく。お嫁さんは「この花が先端まで咲ききると、梅雨があけるよ」と教えてくれた。

この花は懐かしい。北海道にいた子どものころ、庭先に数株のタチアオイが咲いていた。友達に遊びに来て、花びらを取ると下の方を割いて鼻に付ける。そしておどけながら、「ケッケッ、コケコッコー」と鶏の真似をして走り廻った。他愛のない遊びなのだが、そんな思い出がこの花が咲くたびに思い出す。そのため、この花を「コケコッコ花」とも読んでいた。大きな花が密集して咲くので、遠くから見ても、この花が咲いているのが分る。

蝶ひくし葵の花の低ければ 富安 風生

花の蜜を求めて蝶々はひらひらと飛んでいる。畑に蝶の飛ぶ姿は実景だが、花に蜜を求めながら、同時に青菜に卵を産み落とし、やがて葉野菜は穴だらけになってしまう。こんな穴だらけの野菜は売り物にならず、八百屋さんの店頭には決して出ないが、茹でてしまうと、何の抵抗感もなく食べられる。農薬を使ったきれいな野菜には、残留農薬の危険も伴う。

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山東菜

2013年06月17日 | 農作業


わが家の朝取り山東菜である。久しぶりの雨で、大きさが2倍になった。だが、大きくなるのは植え方がなっていないので、実に小さい。山東菜は明治8年の東京博覧会で紹介された清国山東地方の野菜で山東ハクサイとも呼ばれる。ハクサイに似ているが結球しないのが特徴だ。日清戦争に出向いた兵士が、このハクサイの種を持ち帰ったのがきっかけで全国各地で栽培されている。大きなものは1株6キロにもなるので、農業従事者の高齢化でこの野菜を栽培する農家は少なくなった。

だがわが家では、種を密集して撒くため疎抜きしても、大きなれず写真程度のものを味噌汁に入れたり、竹輪を入れて煮付けにして食べる。野菜が高騰したりしたとき、小さくとも柔らかい食感で重宝している。ハクサイと同様に漬物にもするとのことなので、一度漬けてみようと思う。

一昨日からの雨のおかげで、キュウリも一気になり始めた。ナスはまだ一個二個の段階だが樹勢が大きくなり始めたので、これからが楽しみだ。ズッキーニは雌花先行で、雄花がおっつかない、そのため受精がなく実が大きくならない。雄花の咲くのを待って、受粉させないといけない。とにかく、雨が少しでも降ると、野菜畑は急にいきいきしてくる。大雨はいらないが適度の雨が欲しい。野菜作りの人と顔を合わせるたびに、「雨が降らないね」というのが挨拶になっている。
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河村瑞賢

2013年06月16日 | 日記


元禄12年6月16日、江戸の政商河村瑞賢が82歳で没した。江戸幕府が安定するにつれて、江戸の米に不足が生じた。幕府は奥羽地方の官米を運ぶため、東廻りに加えて、酒田港から下関を経由する西廻り航路の開発を御用商人の河村瑞賢に命じた。最上川の舟運によって酒田に集められた米は、千石船に積みかえられて江戸へ送った。日本海の要所、要所に船と合図する番所に狼煙台を設け、陸から舟や船乗り、積荷の状態をチェックし、海難事故には迅速に対処できるシステムをつくりあげた。この航路が軌道にのると、酒田は空前の繁栄を見せ、その様子は井原西鶴の『日本永代蔵』にも描かれている。

酒田の日和山公園には、瑞賢の銅像が建ち、千石船のミニチャーも展示され先人の功績を伝えている。瑞賢は伊勢の貧農に生まれ、13歳で江戸に出、車力人足から身を起こして商人になった。その成功を語る逸話が今に残っている。明暦の振袖火事が出たとき、瑞賢はわが家が焼けるのを構わずに木曾へかけつけ、材木を買い占めて、木材の高騰によって大儲けする話は、大石田の紅花商人・鈴木清風と並んで有名である。

世間で富豪と言われるようになっても瑞賢には奢るところがなかった。下女が働く台所へも気軽に行って竈を覗く。薪が多くくべ過ぎていると、その中のいく本かを取り出して消す。決して叱るような様子は見せず下女を諭すようにやさく言う。「ものはほどを過ぎるとかえってよろしくない。薪もそうたくさんにくべてはよく燃えるものではない。今のわしの身代で薪の二本や三本を惜しむものではないが、無用のことは薪一本でも費やさぬようにせなばならない。」これだけ懇切に言うと、下女も納得して教えを聞くようになる。

瑞賢は若い書生を可愛がった。家に書物をたくさん揃え、書生に貸して読ませた。かの新井白石も瑞賢の本を借りて読んだ一人であった。白石のひととなりを見抜いた瑞賢は、孫娘に娶わせようと話してみたが、白石はこれを断った。富豪の家に身を置いてしまうと、努力がなくなり、自らを高めることはできないと考えたからであった。この白石の言葉を聞いて、意に介することなく、かえって白石に親しんだ。『奥羽海運記』を書いて瑞賢の偉業を世に知らせたのは、新井白石であった。
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こうもり傘

2013年06月15日 | 日記


きのうから久ぶりの雨である。畑の野菜たちの待ちに待った恵みの雨だ。きょうは霧雨のようなしとしとした雨が明け方から降り続いた。雨とともに気温も下がった。きのう32℃と、堪らない暑さだったが、きょうは24℃と8℃も下がっている。だが、この気温が平年の気温である。

梅雨の蝶たまたま迷い来て黄なり 久保田万太郎

傘の起源は古代エジプトの貴族が使ったいう説があるが、本当かどうかよく分らない。布地に柄がついたのいものが使われるようになったのは、イギリスで18世紀の後半のことである。開いた形が蝙蝠ににているからとか、傘は被るものであるからカブリからコウモリと呼ばれるようになったという説もある。

その普及に弾みをつけたのは、細い鋼鉄製のU字骨の発明だ。これによって美しいシルエットを実現し、キチンと畳むことができ、雨の降らないときはステッキ代わりに用いることもできた。咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉が、土産にこうもり傘を一本買ったという記載が『福翁自伝』にある。こうもり傘を使い始めたばかりのころ、道を行きかう人が傘を開くとお互いの傘がぶつかったり、雨をかけたりと大変な騒ぎになったという。こんなことが江戸の街で起きたら、「無礼者」とばかりに、切り捨てられることになったかも知れない。

この雨、もう少し降り続いて欲しい。

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