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蕗の薹を見つけると心がなごむ。摘んでやわらかい葉の部分を、味噌汁に浮かべて香りを楽しむことができるし、枯れ葉のなかからのぞく卵のかたちをした花が素朴で、その薄緑の色も懐かしい。冬を越して再生した蕗の生命に再会することが、うれしい気持ちを起こさせるのかも知れない。蕗の薹は晩秋に蕗が枯れる前、株の真ん中に持つ花芽である。雪解けを待って、大地の栄養を吸って成長し、太陽の光を受けて花が咲く。花が終わると地下茎が伸びて、小さい葉をそのまわりにたくさん出してくる。これが蕗になる。誰もが好む貴重な山菜である。
見て過ぎし蕗の薹へと後もどり 古屋 秀雄
自然の営みを見て人はなぜ感動するのだろうか。それは季節の移り変わりのなかに、植物や動物の死と再生を見ることによると考えられる。春になってあらゆる種類の植物の芽が吹き出し、花の色どりが野山の染める。俳人の山口誓子は、俳句の考え方を述べている。
「自然から感動を受けたとき、その感動は動いてやまず、やがて消え去るから、その感動をはっきり眼で見て止めなければならぬ。それから、その感動を言葉で表現しなければならぬから、その感動の消えないうちに、言葉で云い止めなければならない。」
感動的なシーンをカメラで捉えるのも、俳句の営為と同じ側面を持っている。