常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

氷瀑

2018年02月10日 | 登山


氷瀑といえば文字どおり氷った滝。層雲峡や袋田の滝、県内では玉簾の滝などがすぐに思いつくが、身近な氷瀑として人気があるのが瀧山大滝の氷瀑だ。西蔵王の放牧場から瀧山の嗽場の登山口から大滝コースを取り、雪のなか沢沿いを1時間半、ピクニック感覚で行けるのがうれしい。標高はおよそ1000m、朝方の冷え込みでまだまだ融ける気配はない。



今年に入っての山行は好天に恵まれている。市内から西蔵王の放牧場まで、道路の雪は除雪して乾燥したアスファルト。無雪期と変わりなく駐車場に着く。放牧場からは和カンジキで、雪上を歩く。氷瀑を見に行く人も多いのか、しっかりしてトレースが登山口へと導いてくれる。高台から振り返れば、山形盆地の向こうに朝日連峰が青空のなかに浮かんでいる。

嗽場の登山口を越えて沢筋にトレースがある。日がさして気温が上がってきた。雪道を歩く仲間の顔には汗が光ってみえる。本日の参加者8名。内女性4名。沢道のため、両側は切り立った斜面にブナなどの雑木がある。次第に勾配がきつくなる。木の幹に瀧山頂上へ、大滝コースの標識が見える。



地形と雪のおりなす造形はあくまで美しい。砂防ダムを二つ越えてしばらく急坂を登ると氷瀑が見えてくる。氷った滝だけに、雪のない季節の滝の姿が彷彿とする。今井邦子に「滝」という一文がある。

「一気に「押して来た水が一山を飛躍して落つる勢、その勢には水は億兆に砕けてさながら雲のように、空中に漂よひをなして動きたゆたひ水の姿を変化させてゐる。

山を落つる瀧は水より白雲と霧らひただよよひ落ちて流るる 邦子」

けしてこの大滝がそのようなスケールを持ってはいないが、たとえ小さくとも瀧には持てる力を爆発させる力強さを秘めている。この氷の尖端がその強さを語っているように思える。


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ヘンリ・ライクロフト

2018年02月09日 | 読書


ヘンリ・ライクロフトは実在の人物ではない。20世紀の始まりに南イングランドの片田舎に余生を送った人物として描かれるが、作家ギッシングが自らの生に擬しながら創り上げた想像上の人物である。私がこの岩波文庫に入った『ヘンリ・ライクロフトの私記』を初めて手にしたのは、高校3年生の時である。深川駅の近くにある本屋で、その深い内容も知らぬままに買ったは偶然のことであった。今、読みかえしてみても、年若い高校生が何故この本に惹かれたのか、想像することは難しい。

ただ、難しい文章の端々に、老年になったからの本を読む楽しみ、南イングランドの四季おりおりの自然の美しさを描いた部分が散りばめられていることにに共感を覚えたのかも知れない。その時から60年を過ぎてもなお、本棚にはこの「私記」と『蜘蛛の巣の家』が、置かれているのは青春時代の読書へのノスタルジーの故であろう。

あらためてこの本を読みかえして、ヘンリ・ライクロフトの余生の境地と自分のそれとのあまりにも共通する心境に驚きを覚える。

「春の光りを待ち焦がれて、私は近頃ブラインド上げたまま眠ることにしている。目がさめたとたんに空が眺めたいと思うからである。今朝、私はちょうど日の出前に目がさめた。大気は静かであった。西の方にあたって淡いバラ色の光りが漂っており、それが東の空の快晴を予言していた。雲一片みることもできなかった。」

春の光りに誘われてライクロフトは朝の散歩に出かけていく。そして一年ぶりめぐって来た春の景色を楽しみ、一年の立つのが早いことを実感している。それは一日を楽しんでいることの証でもある。この余生があと一年と言われても、けして不平は言わないと語って、この私記の完結したことを記している。
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小さな喜び

2018年02月08日 | 日記


私にとって小さな喜びは日常にある。読書で感動の一冊を読み切りことは大きな喜びだが、拾い読みで、知らなかったあるいは気づかなかったことを、見つけることは小さな喜びである。今朝も、「衣手」についての小さな発見である。昨年から詩吟の吟題として何度も吟じてきた天智天皇の「秋の田の」に出てくる言葉である。「わが衣手は露にぬれつつ」とあるが、衣手を勝ってに解釈して、衣についている手、袖という理解をしていた。

萩谷朴『語源の快楽』の頁を繰っていると、「衣手・酒手・網手・帆手」という項に行き当たる。萩谷はこれらに使われている手は、人間の肉体の手とは全然関係のないことを説いている。そもそも衣手を袖と解釈しては、袖だけはぬれて、身ごろはむれないというつじつまの合わない意味になってしまう。これは、布を意味する𣑥(タエ)が衣に付いて詰まってテとなったものである。酒手は別だが、網手、帆手もその原料である𣑥が使われいる、と説明されている。

相撲の関取は、防人(関守)からきている。諸国から力の防人が募られて、海の防衛に当たった。在京する間は、天皇の御前で相撲を取ることを許されたのが関取である。これは閲兵のようなもので、その力を示すことで、敵が国に迫ってきても安心感を与えたのであろう。関取のなかで一番に強者にあたる最手を大関と言い、その次のものを関脇と呼んだ。ちなみに横綱とは、大関のなかで、人格・力量抜群の者である。

ガン検診の結果が送られてきた。通常生活では異常は感じないものの、健診の結果がでるまではどこかに不安がある。大腸も、胃も異常なしという結果であった。この結果をもらう度に思うことは、次回検診まで節制しようということだ。しかし、いつも間にかそのことを忘れて、食い過ぎ、飲みすぎに走って、健診の結果に不安を抱くようになる。
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水温む

2018年02月07日 | 日記


午後になって雪が止み、日が射して来た。見なれた千歳山の雪景色も、幾分とけて春の風情のように感じられる。自然にふれることの多い詩人には、鳥などのわずかな動きのなかに春を感じとる繊細さがある。宋の蘇軾の詩に、「春の江 水暖めば 鴨先づ知る」という一句がある。水のなかにいる鴨は、水の温かさに反応して、その動きが活発になっているのを見逃さない。

水中の鮒は寒があけるころ、巣立ちをする。厳しい寒さの間は、泥のなかでじっとしているが、水が温んでくると、巣を離れ餌を求めて動き出す。彼岸のころには、集団になって泳ぎまわるようになる。釣り人が寒鮒をもとめて、水辺に向かう季節ももうじきである。

山登りの仲間たちは、氷瀑をもとめて、雪深い沢に向かう。瀧山の大滝が溶け出す前に、大きく育った氷瀑を見るチャンスだ。
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春を待つ

2018年02月06日 | 日記


朝、青空が見えて、春近い景色になった。しかし、気温は上がらず、昼頃から雪になる。そろそろ、春が待ち遠しい気分である。道元禅師の和歌がしきりに思い出される。先日の詩吟新春の集いで、武田本部長が吟じた歌である。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり  道元

かってノーベル文学賞を受賞した川端康成が、授賞式の講演で日本の美について語り、その冒頭に紹介した歌である。日本には四季それぞれに美がある。冬の雪の美しさは、私自身さえかえる雪山の景観のなかで何度も確認している。その寒さを「すずしかりけり」と表現したところに、道元の特異性がある。今年のような寒い冬のなかにあっては、室内に咲きはじめた花を見ながら春を待ちわびるのは、私を含め一般的な日本人の性である。

それにしても、この歌のすばらしさをどう言えばいいのか。四季をたった一語でシンボライズする的確さに感服する。春の花、夏のほととぎす、秋の月、そした冬の雪。この歌こそ、日本に生れて、四季それぞれの美のなかに身を置くことのできる幸せを、改めて知らせてくれる。
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