常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

コスモス

2021年10月11日 | 日記
コスモス
コスモスが風に揺れているのは、いかにも日本に秋に馴染んだ光景だ。その向うにある紫苑と咲き競うのも似合っている。新しいスマホで動画を撮って、ユーチュウブに上げてみた。秋を感じる上品な動画に仕上がった。BGMをつければもっといいだろうか。しかし、この花が日本に渡来したのは明治初年。日本の風土にあったのか、たちまち日本中に広がって、「秋桜」という和名が与えられた。よほど日本人の気に入られたのであろう。同じコスモスの名が冠せられているのに黄花コスモスがある。こちらはキク科で、コスモスとは全く違った種の植物で、生命力が強く、同じ属のオオハルシャギクなどを駆逐してしまうこともあるらしい。知人から聞いた話だが、在来種を守るため、黄花コスモスの植え付けを禁止している町内もあるとのことだ。

一体にに帰化植物の生命力は強い。西洋タンポポがはびこって、日本タンポポの存在はどんどん小さいものになり、セイタカアワダチソウの大群落は、日本の晩秋の景観を変えてしまうような勢いだ。輸入した成魚や爬虫類が、逃げ出して大捕り物を演じるニュースも後を絶たない。日本の風土が植物や動物の生育に適してことの証しでもあろう。コスモスの花が咲くと松茸が出始めるという俚諺もある。今年は適度の雨で、松茸が豊作らしい。日本産の松茸が安値だというニュースを聞く。先日、寒河江の道の駅で松茸が出ていたが、それほど大きくないものが三本セットで18000円の値がついていた。豊作で安いとはいえ、貧乏人の口には入らないのが、日本の名物松茸だ。

今日は雨。最高気温が22℃ぐらいで、昨日までの暑い秋は一転、本来の秋に戻る。今日の雨がそのターニングポイントになったようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公園で

2021年10月11日 | 日記

秋の公園は淋しい。日曜日の午後、子どもを遊ばせている家族がたった一組。桜の落ち葉が空しく風に吹かれていた。しかし、空はどこまでも青く、白雲が流れていた。そもそも日本の公園は、行政が国の指針にそって作っているので地区の住民のニーズに合わないこともあるのかも知れない。子どもを遊ばせる遊具があるが、そもそも外で遊ぶ子どもたちが少なくなっている。遊具たちは手持ちぶさたに子どもたちが来るのを待っているようだが、子どもたちが遊んでいる姿を見るのは稀だ。コロナというのがあってその傾向が強まっているが30年前の公園の様子とはすっかり様変わりしている。

ヨーロッパの公園や広場は、長い歴史に支えられている。人が集まるための必要な場として、必要に迫られてできたものだ。そこに隣接してあるのは市場、生活に必要なものを買うためだから、そのついでに公園のベンチでおしゃべりをしたり、一人で座ってのんびりしたりする。ベンチでしくしく泣いている子に話しかける老婆。そこら中を元気に走り回る子供たち。そこでは、年に一度決まった日にお祭りもある。地面に這いまわている蟹。大鍋には湯が沸かされていて、蟹を捕まえては鍋に投げ入れ、茹で上がった蟹を木づちで割って売る男。びっくりするほど安い値段で売られている。この公園の様子は1987年、ヨーロッパに滞在した堀田善衛の体験記にあるが、今日ではどうなっているのだろうか。それにしても、日本の住宅街に作られた公園は淋し過ぎる。

秋風にひとがはなしの人の事 相馬黄枝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三日月

2021年10月10日 | 万葉集
秋の夕日を追うように三日月が山の端に沈んで行く。この景色を見るたび、その美しさに感動する。その度に写真に挑戦したが、自分の持っているカメラではうまく撮ることができなかった。新しくしたスマホのカメラがその姿を捉えてくれた。しみじみと日本の夕焼けと三日月に見とれてしまった。

月立ちてただ三日月の眉根掻き
 日長く恋ひし君に逢へるかも 阪上郎女
振り放けて三日月見れば一目見し
 人の眉引き思ほゆるかも   大伴家持 (万葉集巻6・994)

月見の宴はすでに万葉の時代に行われている。眉のような月は、今の我々にとって違和感のない表現だ。月を愛でる気持ちに時の差はない。この歌は、家持16歳のとき、初めて郎女の家を訪れ、歌会を催したとき三日月を詠題としたものだ。相聞ではなく、月を愛でながら男女の遊び心が歌に出ている。郎女の歌は「月が替わってほんの三日目の月のような細い眉を掻きながら、長らく待ちこがれていたあなたにとうとうお逢いできました」と詠んだのに対し、家持は「遠く振り仰いで三日月を見ると、一目見たあの人の眉根がおもわれてなりません」と詠んだ。こんな風に、秋の三日月を楽しんだ万葉人の場に、立ち会っているような今宵の月だ。もうすっかり姿を消して、星明りの夜になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな命

2021年10月10日 | 日記
散歩道の庭の片隅、切り詰められた桜の枝に花芽が出て、小春日和に花を咲かせた。わが家のベランダでは、秋口に芽をだしたアサガオが、少しのびて、こちらも季節外れの花を咲かせた。小さな花に命の神秘を感じる。どんな季節であれ、花は結実して、次の世代へ命をつなごうとするけなげな努力をしている。

今日、10月10日は命の日。胎児がこの期間、母の胎内で成長して、出産の時を迎える。これに因んで、「命に感謝する日」に制定されているらしい。毎年、医療関係者や救命救急士協会が式典を行っている。そんな式典も、遠い存在だが、身近に咲く返り花を見て、いのちの大切さに思いを馳せたい。

「人生は短い。わずかな時しか生きられないというよりも、そのわずかな時のあいだにも、わたしたちは人生を楽しむ時をほとんどもたないからだ。」(ルソー『エミール』)

ルソーの言葉を、命の日にしっかりと嚙みしめたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林檎

2021年10月09日 | 日記
林檎が生る風景は懐かしい。我が心の風景である。生まれてもの心がつくころ、家の近くにリンゴの木が植わっていた。夕日に林檎の実が赤く光る景色を忘れることはない。その実を無断で採って食べたのは、子どもには自然の心情であったろう。それがしてはいけないことだと厳しく戒めたのは父であった。酒が好きであまり教わることのない父であったが、このときの怒りの目と厳しい体罰はいまだに忘れられない。

神話ではアダムとイブの林檎が有名だが、ほかにも黄金の林檎が登場する神話がある。アルカディアにアタランテ―という美人の女猟師がいた。彼女の父は男の子を望んでいたため、生まれてすぐに山に捨てられた。山で猟師の一団に拾われて、熊の乳を与えられて育った。猟師たちに猟の方法を教えられたアテランテーは、すくすく山野を飛び回り、美しい女性として育った。弓矢の技術も走る力も男を凌駕していた。やがて評判が国中に伝わると、結婚を求めて若い男たちが彼女のもとに来るようになった。彼女は条件を出し、自分と走る競争をし、勝てば結婚を許そう。もし勝てなければ命を貰う、というものであった。我と思う若者が次々と勝負を挑んだ。走り終わってゴールで弓矢を持って待ち構えたアテランテーは遅れて走ってくる若者を容赦なく矢で射殺した。多くの若者が勝負に敗れて命を落としていった。

そこへ現れたのが、アテランテーに恋したヒッポメネスである。彼は女神のアフロディーテに相談し、アテランテーに勝負に勝つ方法を教わった。アフロディーテは黄金の林檎を三つ渡し、アテランテーが追いついてくると林檎を落すように教えた。実際の勝負になってヒッポメネスが追いすがるアテランテーの前に林檎を落すと、それを拾うために足を止めた。三度これを繰り返すとさすがのアテランテーも林檎の惑わされて敗けてしまい、結婚をすることが決まった。

今年も林檎の季節がやってきた。白桃、シャインマスカット、刈谷梨、ラフランス、フジリンゴ。果物王国の山形の秋は食欲をそそる。

林檎の実赤し遠嶺に雪を待たず 大串章

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする