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今も昔の面影を色濃く残す奈良・今井町。
ミモロは、トコトコと町の散策を続けます。

江戸初期、東西600m、南北310mの周囲にぐるりと濠を巡らし、その中に、1100軒、約4000数百人の人々が暮らす財力豊かな町でした。その豊かさを物語るように、立派な構えの町家が軒を連ねる町は、今も、人々が暮らす生活の町でもあるのです。
さて、ミモロは、今井町の西門の近くにやってきました。
細い路地を見つけたミモロ。「こういう道って、入りたくなるよねー」と、漆喰で塗られた壁が続く路地を奥へと進みます。


ここは、今井町でも惣年寄筆頭を務めた由緒ある「今西家」。慶安3年(1650)に建てられた町家ですが、その構えは、まるで城郭のような堂々と風格漂う「八つ棟造り」と呼ばれる豪壮な建物。
今井町で最も古い民家で、国の重要文化財です。
「あのー見学したいんですけどー」とミモロは、インターホンを押して、お願いします。
やがて大きな玄関の扉の一角が空き、中へ。いよいよ見学がはじまります。(ミモロは、たまたまラッキーにも当日訪れて見学することができましたが、事前に見学の申し込みをおすすめします)

入れていただいた場所は、この家の玄関部分。玄関といっても、広々した土間が続き、高い天井の空間です。


正面には、一段、いいえ3段ほど高くなった場所の奥に座敷が続く不思議な造り。

主人が訪問者を見下ろす「上から目線」の造りで、ほかの町家とは違う雰囲気です。
ミモロが不思議に思っていると、
「今からこの家の解説をしますから、どうぞ、こちらにいらしてください」との声。
広い土間の一角で、解説がはじまりました。さっそくミモロも聞くことに。

いただいた解説書によると・・・・。
今井町の場所は、昔、興福寺の寺領で、戦国大名の一族である今西家のご先祖、川井権兵衛清長が、永禄9年(1566)より、この地に移り住んだことから、今日に通じる今井町の歴史が始まります。
共に町に移り住む郎党と一向宗の門徒が結び、町の周囲に濠を築き、自衛都市として、信長の勢力に対抗する時代を迎えます。その後、信長により武装解除されるものの、自治権を有し、以前より深い絆のあった堺と同様、商業で栄えて行きます。徳川の世になり、高度な自治を展開する今井は、江戸、大坂、京都、奈良と同様に、惣年寄、町年寄を置く町制のもと、発展してゆきます。
この今西家は、元和7年(1621)、時の郡山城主、徳川家康の孫、松平忠明のすすめにより、今井の西に位置することから「今西」の姓を名乗ることになったそう。
江戸時代、大きな戦いはないものの、盗賊などから豊かな財力を誇る町の安全を守るため、今西家は、司法権、行政権を委ねられ、奉行のような役割を担っていたそう。
この家の高い位置の座敷と土間の関係は、時代劇によく登場するお白洲のような罪人を裁く場でもあったのです。
「フーム、そう言われてみると、この家の造りがよくわかるー。主人が威厳が保つように、座る位置が高いんだね」とミモロも納得の様子。
土間の片隅には、罪人を入れる部屋もあり、かつては牢屋も敷地内にあったそう。
家の中を覗くと、6間続きの座敷が奥へと広がっています。

仏間には、りっぱな仏壇がチラリ。

「あ、お庭も広そう・・・」ミモロは、トコトコと土間を過ぎて、お庭へ。

「ホントに大きなお家だねー」。ミモロは、庭に置かれた石に座って、しばしお庭を眺めます。

ミモロ、そこから先には、行ってはダメよ。「わかってるもーん。これ止め石でしょ」

「今西家」の解説をしてくださったのは、この家の奥様の今西優美さん。
「今井町を多くの方に、知っていただきたいもの。今後、町の歴史的な建造物を舞台に、いろいろな文化的なイベントができたらと思っています。ぜひ、一度、今井町にいらしてくださいね」とのメッセージも。
大阪や京都、奈良の旅に出かけたら、ちょっと足を伸ばしてみては、いかがでしょうか。
*「今西家住宅」奈良県橿原市今井町3-9-25 電話0744-25-3388 見学の場合は、事前に連絡をしてください。見学は有料。