2023.01.23
父の月命日の前日に愛知県の寺に夫婦でお参りをした後、
名古屋市の北東に隣接する尾張旭市の義兄と姉の家を訪ねて帰宅。
しばらくすると、
オットから「7日に谷まさるさんなくなったって。」と聞かされた。
学主(私にとっては、名古屋モード学園長) 谷 まさる先生・・・
記憶の片隅にあった面影や声、授業が浮かんでくる。
入学手続きのために初めて行った時、丁度ショーの服を着たモデルさんが
数名受付付近にいて、踵を返して逃げ帰ろうかと思った。
それから・・・洋裁の基礎や別にパターンを学び、デザイナー科に入って
学園長講義を受けるまでに3年。デザイナー科に2年在籍した。
菱信ビルの上層階にあった名古屋モード学園は在学中の5年間の間にも
はじめて持ちビルの名古屋校が建築され、大阪モードが開校。
続けざまに西新宿に東京モード学園やモード学園パリ校が開校された。
モード学園ではなく、進路指導の教師の勧める松坂屋の洋裁教室に入っていたら
私の経歴や人生は全く変わっていただろう。
学校推薦で東京のアパレルに就職。
(東京に出ることは考えていなかったけど推薦を辞退するのは惜しかった。)
青年海外協力隊も、通常の婦人子供服教師としては、基礎が弱く
赴任先がデザインの教師をもとめていたことで、現役デザイナーの経験が
圧倒的有利に働いて参加出来た。
人生が動き出すきっかけがモード学園だった。
折々に学園長の授業で学んだこと事が、迷った時の指針になった。
中でも、創造的想像。・・・創造的なイメージを持つこと。
一度、学園長を車座に囲んで講義を受けたことがある。
その最後に、名指しで・・・
「○○さん。熱心なのはいいが口をぽかんと開けていてはいけない。」と注意された。
他の生徒は笑うし、私は真っ赤になるばかりだった。
学園長も笑っているかと見上げると、真剣に叱るというより怒っているといってもいい表情で
「そんな風に無防備に周囲の人を存在を忘れている姿を、人に見せてはいけない。」と言葉をつなげた。
卒業後、教師として学園に残った友人から、
「学園長は、夜間部の学生の顔と名前まで記憶している。」
・・・と、聞かされ二重の驚きで忘れられない記憶になった。
ただ残念なことに、この時の教訓は性格的に活かせないまま生きてきた。
今頃になって、周囲を常に意識しながら生きることはどんな時も
とても大切で自分自身のために必要なことだったのに・・・
と残念に思う。
学園長は、秀吉と同じ<人たらし>だった。
それが一番の学園長の才能だと自身おっしゃっていたように思う。
どれだけの人に影響を与え、巻き込み、導いた人生だったのだろう。
私のような、特別な才能や後ろ盾もない人間が、失敗を重ねながらも自分で選択しながら
面白い人生を今まで、生きてこれた・・・と思えるのは、
あの、学園長の開校した名古屋モード学園のおかげ・ターニングポイントだったと思っている。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈り申し上げます。