ワンダースター★航星記

写真を撮るとは、決して止まらない時間を止めること。旅や日常生活のインプレッシブな出来事を綴ったフォトエッセイ集です。

第2回 喜連(伎人郷)を着物で歩こう! Vol.5 ~「歴史講話」、「アンデスの調べ」

2016-11-09 | 平野を着物で歩こう!
第2回 喜連(伎人郷)を着物で歩こう! Vol.5 ~「歴史講話」、「アンデスの調べ」

               

               

 着物で歩こう!第2部は舞台を寶圓寺に移して、白川ご住職による「歴史講話」と‟インカの風”による「コンサート」。
 第2部だけの参加者も平野地活協の内山前会長はじめ、多数、いらっしゃった。

               

 寶圓寺は15C末の惣道場が前身で、1630年白川郷照蓮寺の僧を招き、寺院化とある。本堂は1730年築。
 飛騨と喜連の繋がりは意外だった。白川さんのお名前は白川郷から?
 その本堂内において、白川ご住職の歴史講話が始まった。

               

               

 にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも        万葉集
 
(息長川の流れが絶えることがあったとしても あなたにお話したい言葉は尽きることなどありましょうか)
 
 にほ鳥はカイツブリのことで息を長く止めて水に潜ることから息長川の枕詞になっている。
 喜連に古墳時代(2~3世紀)に古代豪族の息長(おきなが)氏が居住していたという。
この地に居住していた馬史国人(うまのふひとくにひと)が大伴家持を招き歌宴を開いた時に馬国人が詠んだ歌に息長川が詠み込まれている。
 この息長川は喜連の西を流れている今川が古代の息長川であると言われている。









河内湾(湖)の時代、喜連は天然の良港であったという。 
喜連が伎人郷(くれひとのさと)と言われるのはこの地域は古き時代、呉(くれ)の国から、やってきた渡来人が機織(はたおり)の技術を伝えたので、「くれ郷」となり、それが訛って「きれ」になったといわれている。
高句麗から伎(くれ)、そして、喜連(きれ)へと転化していったという説もある。





 



 さあ、「お寺 de アンデスの調べ」“インカの風”の登場です。


                  

                  

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