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死は忌み嫌うものの王様のような存在だ。
その王様を受け入れるということが浄土に至る最後の門ということになるだろう。
受け入れなくても、最後に死はやってくる。
最後まで受け入れないで死に至る苦しみは想像するだけで恐ろしい。
受け入れが生きることだと気付いたら、人はそんな苦しみを背負うことはない。
死もまた至福の中にある。それが本願の根本だと思うのだ。
死に対する恐れは、私の願いから生まれる。本願に対してこれを私願と呼んでもいい。
私たちは一個の人間として存在している。私願はこの限られた領域だけの願いということにになる。
そして他方、この私を含む広大な宇宙の願いを本願と呼べば、この二つの関係ははっきりするのではないだろうか。
私たちはもともと、本願の中に身を置いていた。
人として生まれ、頭脳が働き始めて、認識と思考が成長すると私欲が芽をだし私願が大きく光り輝くようになる。その光の陰で、本願はひっそりとその命を守り育てているのだ。
私願に目がくらんで、本願を見失った私たちにも、本願は私たちに分け隔てなく命を送り続けているのだ。
本願に気付くだけでいい。
本願を観るためには、こうこうと輝く私願の灯を一つずつ消していくしかない。
夜の街を想像すればわかるだろう。
街灯が消え、家の明かりが消え、最後の聖火が消された恐ろしい闇の中で、私たちは気付く。満天の星空の中に居るということを。
死を受け入れるということは
そういうことだと思うのだ。
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