空体を駆ける (キャンバスに鉛筆)
私は確かに存在する
そう確信するのは
この身体があるからだ。
自分の存在を
身体を通して
認識しているのだ。
哀しいことに
この身体は
生まれ
やがて死ぬ。
しかし
私達はほぼ例外なく
死んだらどうなるのかと考えるだろう。
これが
空体の存在を
明らかに
証明しているのだ。
死んでなくなるものなら
死の先を考えるものなど
存在しないからだ。
「考える」とは
「頭脳」+「気付き」で成り立っている。
身体=頭脳
空体=気付き
(考える=頭脳の働き)という考え方は
空体を見えなくする
つまり間違ったとらえ方なのだ。
身体と空体の癒着したとらえ方というしかない。
この、
「思考」に「気付いている」ものを
身体の癒着から引き離すことが出来る。
気付きに意識を向けるだけでいいのだ。
気付きに意識を向けると
思考の内容を無視してその働きだけが見えて来る。
どんな思考であれ、変わらない同じ働きが分かるのだ。
それが
空体の実感だと理解できるだろう。
修行僧は
難しい修行をして
無我の境地に向かう
しかし
そんなことをしなくても
気付きに意識を向けるだけで
無我の境地に入ることが出来る。
なぜなら
空体は無我そのものだからだ。
空体に出遭うだけで
自分は
空体そのものであることを知り
その実感の中で
宇宙と一つになるからである。
永遠の命を
ほっぺをつまむように実感できるのだ。
私もハイキングなどでは踵を前に意識して歩きますよ。
お妻への気付きも、ほぼ同年代ではないでしょうか。
その気付きの奥の奥に、空体に接する体感が隠れていようとは、お妻もびっくりです。
ぐうたら親父と揶揄されながら苦節の日々、機嫌を取ってへいこらのなさけなく恥ずかしい気付きが、実はお釈迦様と繋がっていたのですから、我々、胸を張って生きてもいいのですね。
sure-kusa様、お世辞も人を喜ばせる方便、必ずその報いが熱燗になって帰ってきます。世のため人のため、されに気付きの真理を探究したいですね。
よき感想をありがとうございました。
ふと気付く、それは思考の立ち位置の事だったり今晩の熱燗を1本追加する為のお妻に対する笑顔作戦だったり何気ないお世辞作戦だったり。
先日、大した運動もしてないのに途中で歩き疲れました。
普段はもっと歩ける。
家に着いて考えてるうちに閃きました。
「そうだ、2~3日前から膝下が軽く動くようになった それに有頂天になり気にしてたから逆にぎこちなくなり歩行が破綻したんだのかも知れない」
翌日、いつもの「踵を前に」だけを意識。
するとどうでしょう、最後まで軽々と歩けたではありませんか!
頭に思い浮かべる言葉1つが、心と体を素晴らしいものに変えてくれる・・この事を実感した次第で^す^