のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

智慧(知識)のかたち(13)

2016-03-25 | 5次元宇宙に生きる(心)

(隣接の土地から侵入してきたつる草。今や我が家にも根付きました)

 

 

私空間とは、「私」の認識する世界でした。眠ると闇が訪れ、目覚めると世界が現れる。この当たり前の日常は私空間そのものだといいましたね。

私たちの知る世界は、すべて、私たち自身の認識を通して見た世界なのです。

ということは、この私空間に現れる他者もまた例外ではありません。つまり日常に見ている他者は私たち自身の認識に他なりませんね。この他者について、私たちはどのような理解を示すことが出来るでしょうか。また話がややこしくなりそうですが、懲りずにお付き合いください。1~2回では済まないかもしれませんが・・・・頑張って書いてみますね。

他者というのは、広い意味でいうと、私空間に現れる「私」以外のすべてのものを指します。そして狭い意味では、「私」以外の人のことです。

今回考えたいのは後者の、狭い意味での他者についてです。家族、友人、群衆、すべて他者として私たちは認識しますが、それはどんな意味を持つのでしょうか。

 いうまでもなく私たちは他人の内側を知ることはできません。私たちが知ることの出来るのは、他人を「他者」として認識した結果でしかありません。この、他人を認識するということはどういう意味を持つのか、それを考えてみたいのです。

 

その前に「私」について考えなければなりません。

人は物心ついたころから自我に目覚め、「私」に気付きます。そこから盛んに世界を認識して知識を蓄え一人前の人間になります。そこに私空間が生まれます。

「私」は私空間の中心にいて、世界を見ているわけですが、それは外側だけで、悲しいことに私たちはけっしてその中身を知ることはできないのです。他人の心の中を見ることはできませんし、私の心を断ち割って誰かに見てもらうこともできませんね。

  人は、他人(私以外の人)から教えと育みを受けて「私」を成長させます。ことばを学習し、知識を得ながら私空間を広げていくのです。しかし「私」は自分を成長させてくれた恩師でさえその内側を見ることはできません。けっして他人の中身を知ることが出来ず、表面だけの他者として理解するしかないのです。

そこで人は、互いを認め合うために、常に「表現」と「受容」を繰り返さなくてはならないのです。

表現とはことばによる意識的な表現にとどまりません。呼吸し食べて眠る。生きて存在することそのものが表現だと考えるなら、そのすべてを受け取るのが受容ということになります。

そして私の考えでは、この「受容」こそ他者だといいたいのです。

私たちの心の旅も終盤に差し掛かって、ようやく一番美しい風景が見えてきました。それがこの受容であり、そこに現れる他者なのです。そこには人が人としてその存在を謳歌するすべてのものが集約されて私たちのもとに現れてきます。人間の心そのものの姿がそこにあるのです。

少しずつその光景を味わっていただければ幸いです。

 

さて、

子育て中のお母さんは、赤ちゃんのどんな動作も見落としません。鳴き声の色を聞き分け、動作でオムツの状態を知ります。ぐったりしたら体調を気にし、健やかな寝顔にうっとりします。

お母さんは、赤ちゃんの生きる姿を丸ごと受容してそこに意味を見つけようとするのです。この場合、赤ちゃんの側は、生きる事そのものが表現になっているわけですね。

この関係は長じても変わりません。人はほとんど無意識の領域で、表現と受容を繰り返して日常をおくっているのです。

この表現と受容は、知識とともに成長します。子供の表現と受容はつたないものですが、大人になるにつれて、より複雑な表現が可能になり、それは同時に複雑な心を受容する能力を身に着けることになりますね。

ところで、受容は、発達の度合いによって、大きな変化をもたらします。赤ちゃんを育てる母親は、幼児をくまなく理解しようとする深い受容を持っており、子供の些細な表現でも見落としません。

しかし、私の経験では、男は赤ちゃんが泣いていても、せいぜいお腹がすいているのか、眠いのかぐらいしか分かりませんでした。その時の私の受容は、親として未熟だったというわけですね。

受容は、その人の人間性そのものであり、他者はその人間性に合わせて現れてきます。

ピエロを見て、子供はただ面白い人という他者を見ているだけですが、大人は、ピエロの顔の下にある人生までも受容して、そこに深い一人の他者を見るのです。

 つまり、同じ他人を見ていても、その時、その他人を見ている者の数だけ他者が存在することになるのです。なぜならそれは人間のレベルによって受容が様々に異なるからにほかなりません。

「私」と「他者」、この関係の中で、他者は私たちに何を指し示してくれるのでしょうか。

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