(手入れしない庭なので、花が勝手に咲いています・・・)
表現と受容、これは人間のもっとも身近にある特性です。社会をつくり集団生活をする人間の特殊な能力といえばいいでしょうか。
集団生活をする動物や昆虫はいますが、人間は本能だけで動くのではありませんね。今まで見て来たように、人間の思考は宇宙の摂理を離れて、自ら生きようと働きます。それは言ってみれば、本能のように自動的に正解を与えられた生き方ではないわけです。もっと言えば、私たちは、自らの思考に対して、正解を知らないのです。
一方で人は上図のように大きな思考領域を持つわけですから、正しい思考なるものを与えられていない私たち人間にとって、これは大きな冒険と言わざるを得ませんね。
そんな人間にとって、表現と受容は必然的に身につけられた能力と言えるのです。
恋人を喜ばせたい。誰でも思うことです。
で、恋人の好きなものをプレゼントする。いうまでもなくそれは「私」が示す相手への思いの表現ですね。
ところが、それが正しかったのかどうかは「私」にはわからないのです。それを知るためには相手の表現を見るしかありません。
一方恋人は、「私」のプレゼントを受けて、「私」の心を受容します。うれしいのか、迷惑なのか、辛いのか。その受容が恋人の表現となります。
そこで「私」は、恋人の表現を受容してその心を知ることになります。つまり、「私」の思いが恋人を喜ばせたのかどうかの答えは当然のことながら恋人、つまり他者の中にあるということになるわけですね。
この関係は、何も恋人に限った話ではありません。私たち人間は、知識を教えと育みを通して他人から与えられます。人間は他人と「私」の輪の中で成長するしかないわけですが、その時必然的に芽生えてくる意識が「いい人」なのですね。
「いい人」になりたい。という欲望を、意識的であれ無意識であれ、私たちは心の底に宿しています。
するとどうです? この「いい人」は、先の恋人への思いと全く同じ構図になっていることに気付きませんか。
そうすると私たちは「いい人」を表現して生きている限り、不断にその答えを求めなくてはならなくなる。そしてその答えは他者にあるわけですから、私たちは常に他人を受容して自分を見るという生き方をしているのです。
私たちの私空間に現れる他者とは、自分自身に対する反省に他ならないのです。
もちろん相手が子供でしたら、この他者に対して反省はまず現れませんね。子供は「私」にとって育みの対象だからです。
こっそり、つまみ食いをしている「私」の心の中には、母という他者が現れています。その時の心の母は、私の反省そのものです。見つからないうちにことを成し遂げなければ、ケーキをゆっくり味わうゆとりもありませんね。そこにドアのノブが動いた。「私」の悪事を母がひっさげてやってくる。そこに現れたのが弟だったら、一瞬で反省は消えますね。逆に「私」は弟を共犯者にしたてるわけです。
人間の輪が見せてくれる心の悲喜劇がここにあります。
私たちは常に人の中にあって、表現と受容を繰り返しながら生きています。その反映が他者に他ならないのです。
他者は受容だといいました。
いい他者と出会うためには、私たちに出来ることは、この受容をいかに大きく、深くするかということのなのかもしれません。
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