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(のしてんてん心の風景 F50)
桂米朝の落語で、忘れられない噺があります。
それは、噺の前のまくらに語られた短いながら肝をつぶすような大きなな話でした。詳細は私の創作です(正確に覚えていませんので・・・)
正月の夢に大きななすびの夢を見てね。
それはめでたい。で、それは牛ほどの大きさかい?
いやいやそんなものではたりん。
なら、クジラほどのなすびだね。
とんでもない、もっともっとおおきなものさ。
何、ではこの地球ほどの・・・
いやいや、ほれ、闇夜があるだろう。
町中が真っ暗になるあの闇夜のことかえ?
そうさね、あの闇夜にへたを付けたようななすびだよ。 (覚えているのはここだけ)
闇夜にへたを付けたようななすびとはよく言ったもので感心するばかりです。これ以上大きなものはないかもせれません。
ところで、私たちは、このナスのはなしと同じノリで、5次元宇宙の空間に目を付けたような大きなヒトの存在をイメージすることが出来ます。
そんな巨大なヒトを思い浮かべることが出来たら、私たちは案外簡単に己の真実に悟ることが出来るのでないかと思うのです。
私たちは図のように世界を見る目を持っていますね。このとき「私」というのは、この目のついている肉体と、その内観だというのは常識ですよね。世界を認識して、思いめぐらす「私」の存在は、この目の背後に軸足をおろしていることを疑うものはいないでしょう。
ところで、私たちが観ているこの世界は頭脳がつくり出した幻想なのだという話は何度も繰り返してきました。では、どこにも私たちが触れられる真実はないのでしょうか。
しかし揺るがない真実は、まさにこの瞬間、ここにあったのです。それは自分自身に対する気付きなのです。
私たちは毎日、なにがしかの考えが頭に浮かんで、なにがしかのことで気を使いますね。
でもその時注意して見てください。「私」になにがしかの考えが浮かんだというのは、頭の働きなのですが、それだけではコンピューターの思考と同じなのです。つまり大事なことは、頭が考えたことに、気付いている存在があるという事実です。
ひとつの考えばかりではありません。感じや想い、自分の中に起こっているすべてのことがらに気付いている存在。
「えっ?私?」というときに思い浮かべる「私」というのは、そう思っていることに気付いている存在があるから分かることなのですね。気付きがなかったら、「私」は永遠に自分にも誰にも知られないで終わります。
つまり私たちが、自分の存在を認識できるのは、私を見つめる目があるおかげなのです。
その存在に分かりやすく目球を付けてみると、上の図のような感じで私たちを見つめている存在をイメージすることが出来るでしょう。
さて本題はここからです。
次回、この深い真実の意味を、私なりに書いてみたいと思います。
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