自分を空だと認識することは不可能なことではない
というよりむしろ
私たちは空間を何もないと思い込んでいるだけなのである
いつか空の境地になりたいと思うのは
その時空の境地にいないのではなく
空の境地に気付かないでいるだけなのだ
空を知覚する
それはいつも起こっている
たとえば
スポーツなどで思いが達成されたとき
充足感を味わう
この充足感こそ空に対する認識なのである
充足感に意識を向けると
そこに物質は存在しない
あるのは空の波動だけだ
すなわち
満たされた心の空間に包まれている
それが空体の実感なのである
物質に包まれた充足感だってある
そんな反論もあるだろう
もちろんそれは分かるが
人は物質と空間の存在なのである
物質は常に
充足しかない
物質に意識を向けたらそこにはもともと充足感しかないのだ
心だけが充足感を失っている
それを探し求めて旅をする
それが心なのだ
そして
心の正体こそ
空なのである
つまり空体は
心という体感を伴って私たちにある
生き死にの問題で言えば
空だけが生きている
花が咲き実を付けるのは
物質が生きているのではない
それは物質を取り巻く空間の作用が
花を咲かせているのだ
つまり空だけが生きている
その空こそが自分自身だという認識は
決して不可能なことではない
空という自分に出会うことは
夢物語ではないのだ
その空に名前を付けるとしたら
私は自分である空を
五次元宇宙
と呼ぶ
4月30日から始まる尼信会館展のために
描いた30号の鉛筆絵画 心の旅
いよいよあと数日となった
忘れ物があるようで
ないようで
無明
!
おっしゃる通り、空間性に気づくのは不可能ではないでしょう。
というか、“前向きに“、とか“前を見据えて“とか、普通に空間を意識するような言葉を使ってますよね。
すると心が明るくなって、意欲が湧いてくる。
そんな心が気となってあなたに伝わると、あなたは深い悲しみをやわらげ、涙を浮かべたまま私を見つめてくる。
こんな文の90%は空についての印象を書いています。そして物質と思われる言葉も、あなたや私、涙でさえ、空間に浮かんだ素粒子なのですから、
実は私たちが認識し伝えあい、愛し合うすべては、おそらく100%空間についての認識なのですね。
ところが不思議なほど空間は実生活の中で認識されていないのです。
空について考えてみたいですね。
振り返ると後がありません・・・
見上げても届きません・・・
俯くとじっとしていられません・・・