(夕暮れの浜)
悪いと分かっていながら、それと反対のことをしてしまう。
この構図は、感情に翻弄される私たちを象徴しています。
そしてこれは理念と欲望が別々に働くことを意味しているのです。一人の人間の頭の中には様々な思考が、ある意味てんでバラバラに動いているということも出来るわけです。
すでに見てきた思考の全体を表す思考地図ですが、私たちの思考はこの全体が統一されて働いているわけではないのですね。
身体思考は拒否しているのに、酒を飲みたいという欲望が湧き上がってくる。感情的思考はそれに押されて酒瓶に手を伸ばす。同時に理念思考は、酒は医者に留められていると騒ぎ出す。
それらは頭脳の中で同時に起こるのです。
それぞれの思考には当然感情が生まれているわけですが、結局その強い方に流れていきますね。
飲酒の欲望が勝って、欲望を満たすと、抑えられていた理性が「わるい」と大声を上げ始める。身体思考は肝臓の悲鳴を訴える。
家族の悲しい眼、社会の白い眼、追い詰められる自身の姿。もし理念思考が、自責の念に堪えかねて自傷行為に及ぶものなら、身体思考は二重に悲鳴を上げることになる。
いつも身体思考が感情の混乱に被害をこうむるのですね。
身体思考が何を訴えようとしているのか。この混乱のさなか、最も耳をかたむけなければならないのがここなのではないでしょうか。
酒は体が要求しているのだ。それが身体思考ではないのか。
そう反論されるかもしれませんね。
確かに、飲みたいという欲求は身体から生まれているように見えます。しかしそれには限度があります。中毒に陥った身体思考を正常な思考ということはできない相談です。
何を言いたいのかといいますと、
私たちの日常はいつだって、ひとつの感情に支配されて動いているのではないということです。感情はいつもこのように乱立して現われているのです。それが理性によって統合されているわけなのです。
しかしいつもそれが成功するわけではありませんね。混乱が生じるのです。その時、身体思考に耳を澄ませる。それが大事だということなのです。
「これ」という感情の存在を経験するためには、まず身体思考に戻る必要があります。
「これ」という感情は、人間が発展して最後に掴むものという イメージは誤りです。それはすでに生まれたときから備わっている私たちの真実だと思うのです。
身体思考に耳をかたむけ、瞑想すれば、無限に広がる空間が見えてくる。混乱が消え、私たちはリセットされます。
生まれたままの姿とは何でしょうか。
それこそ五次元宇宙そのものだと私は思うのです。
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