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(人も自然もありのままで)
私たちは確かに、今、この世界に生きています。
そう思えるのは、私たちがこの世界を認識できるからですね。
想像してください。もし目覚めて、まわりに光も音も、触覚もなかったら、私たちは自分が生きている事すらわからないのです。ただ闇があるだけで、私たちの意識はよりどころを失ってしまうでしょう。
そこにローソクの光がともります。自分の手足や体が、光の中に浮き上がります。私たちは自分を発見するのです。空腹に泣き、満たされれば眠る。安らかな意識が、ゆりかごのようです。
やがて日が昇ると。地上の世界が光の中に現れます。私たちは否応なく自分を、この大きな世界と関連付けなくてはならなくなります。
つまり世界は、「私」ではない社会と、「私」という二重構造として、認識するしかないわけですね。この二重構造は、裏返せば社会と自分との関係が生まれたことを意味するのです。
そして関係とはつまり、「よい」・「わるい」・「ふつう」・「わからない」ということに他なりません。これは私たちが観てきた感情そのものだということがわかるでしょうか。
私たちの感情は、実は世界認識そのものだったのです。世界認識とは、けっして世界を客観的に見るのではありません。(客観的に世界を観るのは不可能です)世界を自分との関係で意識していくのです。
認識とは、自分と、自分ではない領域の関係をあらわにすることであり、それこそが感情の秘密ともいうべき心の関連性です。すべてがつながっているのです。
苦悩を瞑想してごらんなさい。そこにはありありと、社会との関係が見えてくるはずです。自分が苦しむのを苦悩と考えてしまいますが、それは実は、「私」の社会認識が起こしている感情だということに気付くのではないでしょうか。
失敗しても、自分しか知らないものは何ともありませんが、人が知っていると思えばとたんに感情は大きく動きますね。
感情をつくる評価は欲望がその基準となると考えました。そして人はバベルの塔のように欲望を架空に積み上げていくといいましたが、その欲望は社会認識なくしては生まれようもないわけです。
さて、「私ではない世界」についての認識です。
現在の私たちの常識である4次元世界は、明確に「私」と「他」が区分された世界ですね。人は四六時中、「よい」・わるい」・「ふつう」・「わからない」の評価によって感情を動かし続けて生きていくしかありません。人は明日のために生きることになります。成功すれば裕福になり、失敗すれば名声を失う。そしてどこまで行っても孤独の世界です。
「私」と「私でないもの」この関係の中にいる限り、人はどこまで行っても感情の波を繰り返します。「いい人」「わるい人」・・・人はみな、社会認識の中で自分を位置づけるしかないわけですね。
しかし、5次元を認識すれば、その認識世界そのものが。私たちに「ある」という評価を生み出してくれるのです。
これは5次元宇宙のモデルです。スケールの軸を認識の道具として考えることが出来れば、私たちは「私」=空間という認識を持つことが出来るようになります。
そこでは「他」は存在しません。自分をこの手足と身体という認識から、この身体をつくっている根本原因である空間こそ「私」だという認識に昇華させることが出来れば、まさにそこから生まれる感情は「ある」という評価になるわけです。私たちは「自」と「他」を比較する必要がなくなるのです。
「ある」という評価は、今ある感情の否定ではありません。むしろそれを丸ごと受け入れて初めて得られる感情と言えるわけで、私はそれを至福と呼びたいのです。
つまり、5次元宇宙に生きる人々の感情は、至福そのものと言えるかもしれません。人類はいつか、喜怒哀楽そのものの変化を季節に咲く花を愛でるように楽しみながら生きることが出来る、「ある」という感情の中で社会を築くことが出来るのでしょうか。
参考: 五次元宇宙を生きる (1月6日「心の旅からの帰還」まで遡ってから現在に向かって読み進めてください)
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