(人がみな通る道)
感情は、私たちそのものです。毎日の生活が喜怒哀楽の波に乗って動いて行くようですね。先日も書きましたが、この感情の波は、けっして途切れることなく続いています。
当然のことですが、生まれて今まで、私が私であったように、この感情は「私」そのものです。けれども普段私たちはこの感情に注目して生きているわけではありません。
目の前の仕事をこなし、目標に向かって進んでいく。忙しい日程に追われて、自分の感情に気付くことすらないのが日常ですね。たとえ感情に気付いたとしても、社会の中ではそれを押し殺すしかないわけです。(もちろんそうではない人もいますが、感情は個人的な思いということでは変わりませんね。)
それでも、その喧騒から離れて、ふと一人になったときに感じる感情に瞑想してみませんか。
あるいは達成したときの喜び、挫折したときの喪失感。心配ごとや不安でさいなまれる苦悩。これらは強くて、逆に、日常生活を押しのけてやってくる感情の波ですよね。ややもすればそのまま感情に押し流されてしまいそうです。
それでも、この激しい感情のさなかに、この感情を抱きしめるようにして、瞑想してみませんか。
するといつか気付くときがくるのです。静かな波の時も、激しい波の時も、そこにあるのは同じ「私」のエネルギーそのものだということが。するとエネルギー(感じ)の動いているのがわかります。
悲しみから喜びに変わる感情の連続を意識することが出来ます。
喜びが、「ふつう」の感情に変わっていく、その連続をみつめることも出来ます。
あるいは、眠りに着く瞬間や、目覚めの瞬間を、意識的に観続けていると、眠っている時の感情もまた見えてくるかもしれません。
感情とは結局、「よい」・「わるい」・「ふつう」・「わからない」という評価から生まれるエネルギーの波というわけですが、大事なことはすべてが自分自身の姿なのだということですね。
ですから、やってくる感情にえこひいきをしてはならなのです。苦悩は嫌で喜びはうれしいのは当然ですが、その思いが高じると、苦悩を切り捨てようとしたり、喜びに執着して、本来ひとつであるはずの感情そのものが不自然な形にねじ曲がってしまうかもしれません。
けれど、もし、この感情の波のすべてを、私自身として受け入れることが出来たら、苦悩さえいとおしい自分だと気付いたら、私たちの感情を生み出している4つの評価が一つになる可能性があるのです。それが「ある」というただ一つの評価なのです。
それは「ある」という、ただひとつの評価となって感情を統合してくれます。4つの区分はそれどれに放つ光の色としてその感情の中に存在し続けるでしょうが、「ある」という感情を壊すことは徐々になくなっていくのではないかと思うのです。
次回は、「ある」=至福 という私の思いを、5次元宇宙とのつながりで見ていきたいと思います。
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