
己をつくっている堅い殻、それが私自身を真実から隔離している
はなから難しい書き出しで申し訳ないのだが、私の心を伝えるのに他に適当な言葉が浮かばない。
浄光寺の元旦の法要は、導師(御住職)と檀家の声明が主な行事だった。
私がそこに参加したのは、「浄土」奉讃会を意味あるものにするために、出来るだけ寺のことを知りたいという思いからだった。
声明に加わったその最初から、私は自分の心の醜さに気付かされた。どうあがいても私の声明は二重になっていて気恥ずかしさや、取り繕いで心が揺れるばかりだった。
己を穿つと言いながら、無心に進んでいく声明の中で、がちがちの己が浮き彫りになって、その醜さがさらけ出されてしまったのだ。
「浄土」奉讃会に値しない。最初からそう言われたようなものだ。
この人たちに私など必要ではない。必要なのは真実それだけなのに、わかっているはずの私が己という垣根を張り巡らしている。恥ずかしいが失格というしかない。
これからだ。
私はそう自分に言い聞かせる。
自分を穿つということの難しさはあるが、40年描き続けてきた目標はその先にしかない。それだけが私のゆるぎない確信だ。もうあと少し、それできっと己に穴があく。
声明が終わって、住職の講話があった。
そのあとの私の心が画像のような箱虫の形につながっていく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます