(生まれるとき キャンバスに鉛筆 s 0号)
ここに描かれた世界は、地球なのか素粒子の上なのか。誰にもわからないし、分かる必要もない
「のしてんてん系宇宙」より抜粋
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4、極大の世界
私達(ヒト)が住んでいるこの場から、今度は極大に向かって、「私」を出発させてみよう。そこに現れてくる世界は一体どんな姿を私達に見せてくれるだろうか。
「私」が大きくなって地球と同じスケールになると、地球は青いボールのように見える。
その「私」がさらに拡大すると、太陽系の全体が、あたかも原子の構造を暗示するような動きをしているのが見え、やがてその太陽系は、たくさんの星の群れの中に紛れ、その星の群れそのものがレンズのような形をした銀河系として統合されて行く。
銀河系はゆったりと運動して、一個の細胞のような固体に見えるだろう。
黒い点の集まりが、実は人間の姿であったという新聞写真の例を持ち出すまでもなく、拡大した「私」にとっては、銀河系はもはや一個の細胞としか見えないのだ。
止まる事なく拡大を続ける「私」の目に映るその細胞はやがて他の無数の細胞と結合して溶け込み、一つの組織を形成して行く。いつしか「私」は、その組織を大地のように踏み締めているだろう。「私」が立っている大地のような組織は、普段の人間の目からは、まさに大宇宙としか映らない最大の宇宙空間なのである。
「私」はさらに拡大する。組織は切れ目なく続いてより物質的になり、さらに大きくなるにつれて、組織のきめは細かく見えるようになる。そして一つの個体としての姿を現し始める。
テレビに映し出された荒野のような風景が、カメラを引くと人肌に見え、やがてそれは人であったと分かるように、「私」の前に、やがて一個の個体が立ち現れてくる。その個体は、一つの生態系をもって存在している。すなわち、生物的個体であると考えたい。
私達が見上げて様々な思いを巡らす天空は、実は一個の巨大な生物の体内であったのだ。
この巨大な一個の生物的個体を、私は「神人(かみひと)」と呼ぶことにしたい。
ここで私は、第二の仮説を立てよう。
すなわち、一つの銀河は一つの細胞的な存在であり、その銀河の集合体が組織・器官を構成し、その結合が巨大な生物的個体をつくる。簡単に言えば、地球を一素粒子として身体を構成する巨大な生物体が存在する。これが神人である。
第二の仮説 地球を一素粒子として身体を構成する 神人が存在する。
神人の場から見上げる空には、また、天体の運行している宇宙が果てしなく広がっている。
「私」の足元には大地があり、山河は青く広がっているだろう。そしてその光景の中に神人の姿が観察されるだろう。
そこから更に「私」は拡大を続ける。
神人の立っている大地がその全貌を見せ始め、それに伴って神人は大地の光景に溶け込み、やがて大地は一個の天体(地球)となって「私」の前に現れるだろう。この時、神人はすでにこの天体に付着する細菌のような存在となっている。
神人の存在する天体(地球)はやがて銀河の中に姿を消し、更にその銀河は他の無数の銀河と共に組織体を造り、「私」がより拡大を続ければ、そこに再び第二の神人が姿を現すだろう。この第二の神人が天体に同化し、やがてまた第三の神人が現れ、こうして次々と神人は「私」に現前する。
このように、のしてんてん系宇宙は際限無く続いて行くのである。
その構造は、前段で見たように螺旋を描いてつながっている。
(6図)
私達のいるスケールの場を出発して極大に向かって行く、のしてんてん系の連鎖は、6図でも明らかなように次のようなつながりを示す。
すなわち、私達の場→地球の場→銀河の場→大宇宙の場→神人の場→地球の場→・・→第二の神人の場→・・
このように限りなく拡大を続け、それぞれの場を一巡りして神人の場に行き着き、更に一巡して、第二の神人に至る。こうして次々と神人は現れて来る螺旋構造をもつのである。
私達の住む世界を特に、「ヒトの場」と言う事にすると、のしてんてん系宇宙はヒトの場から極小の方向に螺旋を描きながら連続して行く。そこには素人が幾重にも存在している。
また一方では、極大に向かうスケールの場が螺旋を形づくっている。そしてそこには神人が存在する。
結局全体を見れば、のしてんてん系宇宙はヒトの場を中心にして、
極大と極小の双方に限りなく続く螺旋構造をしているという事ができるだろう。
5、二つの仮説
私達は、自在にスケールを変えることの出来る「私」を観察者として、のしてんてん系宇宙を眺めて来た。
そしてその際に、二つの仮説を立てた。
その一つは素人の存在であり、今一つは神人の存在である。
繰り返して言えば、素人は私達の身体をつくっている最小単位である素粒子の上に生存しているのであった。当然、この素人の身体を構成している最小単位の(素粒子)の上にも第二の素人が存在するのである。
また神人は、私達が生きているこの地球を、最小単位として自らの身体を構成している巨大な生き物である。神人からさらにスケールを大きくした第二、第三の神人の存在は言うまでもないことであろう。
この二つの仮説はのしてんてん系宇宙の無限螺旋に対して、重要な意味を与えることになるだろう。なぜなら、のしてんてん系宇宙についての私達の考察は、物の存在についてよりも、心の存在についての論に重きをおくものであるからである。
この二つの仮説から引き起こされる人間としての存在のイメージは次のように描き出すことが出来る。
私達の意識がつくり上げている現在の場には、地球という大地がある。この地上に私達人間は何十億もの人口を有している。
この無数の人間たちの一人一人の中にはまた、何十億もの素人が生存しているのである。そのまた素人の中にも、何十億もの第二の素人が世界をつくって、それぞれの生活をもっているのである。
のしてんてん系宇宙は、私達の中で際限無く「0」に近づき、素人達の世界が何層にも続いて行くのである。
その一方で、私達の存在する地球を自らの体の一部分に取り込んで存在する神人がいる。
その神人はまた、何十億もの数をもって世界をつくり上げているのである。さらに、これら神人の世界を一つにして、第二の神人が存在し、限りなく「1」に近づきながら、さらに大きな神人の存在する世界が紙面を積み重ねるように層を成してのしてんてん系宇宙を形成しているのである。
神人の中に人間がおり、人間の中に素人が生きている。このイメージは、これからの私達の、のしてんてん系宇宙論にとって、重要な役割を果たすことになるであろう。
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このスケールの軸が第五番目の次元ということになります。
3次元+時間+スケール=五次元という訳です。
このうち、3次元は私たちに空間と物質の存在する場所をイメージさせてくれる概念であり、一言で言えば物と存在の次元ということが出来ます。
それに対して、時間は変化をイメージさせてくれる次元であり、スケールは実在の大きさを意識させてくれる次元と言えます。この二つの次元は、3次元に対して、心の次元と呼ぶことも出来ると思います。
スケールの次元は、記述の通り、無限に小さくなる世界と、無限に大きくなる世界を、現わしていますが、これに対応する理念を数学の上で探してみますと。無限分割という言葉が当てはまります。
ゼノンの逆説は有名ですが、たとえばアキレスと亀。
「亀は決してアキレスに追い着かれない。なぜなら、アキレスは、亀に追いつく前に、亀が逃げ始めた地点に着かなければならい。その時亀はいくらかでも先に進んでいるから、アキレスはその場所まで行かねばならな。しかしその間に亀は先に進んでいるから、亀はは永遠にアキレス追いつかれないという議論です。
現実にはアキレスは簡単に亀に追いついてしまうでしょうから、これは時間を無視した議論ということになりますが、まさにここにスケールの軸の存在が言い表されています。
時間軸とスケール軸の座標を思い浮かべてみれば、この逆説は座標の原点を通って伸びていくスケールの軸を言い表したものだったと分かるのです。
スケールの軸に沿った数学は、(1+1=2、1-1=0)ではなく、(1+1=1、1ー1=1)という数式が成り立つ世界ではないかと思われます。
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