(ルビンの壺)
「吾は空なり 」
この達観は、私たちの認識の仕組みからも導かれる。
認識とは、認識する対象を背景の中に浮かび上がらせる能力のことです。
あるものを認識するということは、その周りのものを背景として無化するわけです。
花を見ると、その周りのものは背景となって、私には単なる空間のように思えるわけですね。
空間のように思われるというのは、花を認識している私にとって、まわりは意識していても問題外であって、無に等しいという訳です。
例を造ってみました。
この図から何が認識されるでしょうか。
緑の面は、黒い線の背景になっていますね。この時私たちはこの不連続の線を認識しているわけですね。
では次はどうでしょう。
背景と思っていた緑が、片方オレンジに。
すると認識は二つの色面に向かいます。(なんだろう?)右か左か、どちらが背景なのかわかりません。認識は左右に揺れ動きますが、中央の線は認識から外れますね。背景がどちらであれ、この線は対象と背景の境界線となってしまったのです。
ではこれは?
オレンジの面にもう一本線が入りました。とたんに認識は、オレンジの面に向かいます。緑は背景となって、それ以上認識の触手をむけませんね。(岩がひび割れている?)
認識は単純なものより複雑なものの方に流れていって、9割の人は緑を無視するわけです。
ではもう一つ。
右端も緑にすると、認識はさらにはっきりと、緑を背景にして中央に走る道を認めます。
この認識がたどってきた道のりを考えてみてください。認識は真実を求めているのではなく、まとまりを求めているのです、頭の中に描き出せる塊を求め続けています。
ルビンの壺をご覧ください。
ものは動き、複雑で、塊として観ることが出来る。認識の格好の対象となるわけですね。
我々人間が、この認識の働きによって、この肉体に注目して、そのまわりの空間を無視しているのは、まさにこの認識が働いている証しと言えるでしょう。
しかし、ひとつの理解が、認識を変えます。
理解をを変えれば、空間に認識が向かうのです。するとそこに、今まで見たことのない世界が見えてきます。光が去った夜空のように、満天の星が意識の中に戻ってきて、空間を認識する人格が生まれるわけです。
私たちが「在る」と思っている世界は、すべて認識による世界だと理解すれば、この認識の転換は画期的な成長となるわけです。
昨日ある禅僧様と話をする機会がありました。
その方の話しで心に残った言葉があります。
座禅を組んで、座っていると、突然世界がひっくり返るようなイメージがやってくる。するとつぎにやってくるのが、黄金の光。座りながらしばらくその黄金の光に包まれている。という体験談でした。
「ひっくり返るというのは、まわりがさかさまに見えるのですか?」
「そうではなく、もっと内側から」
「では袋を裏返すような」
「そんな感じですな」
私にはそんな経験はありませんが、私の直観が肌を熱くさせました。
袋を裏返すような感覚。それは認識が裏返る。物に対する認識が空間に切り変わった瞬間ではないのか。
「吾は空なり」
私の立っている場所は、まだ知識の段階ですが、その空に遊ぶことは、新しい絵画の上でできそうな気配があります。
おはようございます!
吾は空なり
わたしたち万物は、
素粒子で構成されている宇宙空間
おそらく素粒子よりももっと小さな極微粒子(☆極美竜子☆?)で
構成されている、宇宙と一心同体の宇宙空間
一粒として同じ砂粒、星々がないように
森羅万象万物すべて
それぞれが唯一無二の
かけがえのない個性を帯びている
宇宙空間だと感じています。
このわたくしの意識も宇宙意識
本来わたしたちは、
宇宙同根多種多様万物一体空間
意識も宇宙潜在極域通底意識波動で
結ばれているのでしょうね。
のしてんてんさん!
いつもありがとうごさい^す^♪
今日も
明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。 (マハトマ・ガンジー)
一日一生
一瞬一生
一瞬無限大の心意気で
がんばります!
今日も善き日をお過ごしくださいね☆
それにしましても、まさに、
「宇宙同根多種多様万物一体空間
意識も宇宙潜在極域通底意識波動で
結ばれている」
のですね。
私はそれを信じますよ。
心の目を、わが身に向けるか、
宇宙同根多種多様万物一体空間と宇宙潜在極域通底意識波動に向けるかで見える世界は変わってくるはず。
結ばれている感覚に、今日一日瞑想してみますね。
絵を描きながら瞑想出来るようになりましたから。
まかこさんがいいと言ってくれた、宇宙ビーナス。これが私の絵画レベルを上げてくれそうなの^で^す^よ^。。¥