雪のサザンカ
先日の記事(イメージについて)のダブルイメージの原画を見つけました。どこにでもある風景ですね。
何の違和感もなく、私たちは雪にまみれたサザンカの花や扇形に刈りこまれた松の枝、そしてその奥にある白壁と瓦屋根。この見た通りの風景をイメージしますね。
ところがこの画像の左右を反転させて、重ねあわせると、
下のような画像になるのですが、全く別物のイメージとなっているのは誰の眼にも同じではないでしょうか。この画像を見て、上の原画のイメージを思い浮かべる人はまずいないと思います。
ところが間違いなく、この画像は上の原画だけでできています。
原画を反転させた画像を重ねあわせただけですから^ね^。”
さて、私がここで問題にしたいのは、なぜこんなことが起こるのかということです。二枚の画像を見て、私たちはけっして同じものとは思わない。そこから抱くイメージは明らかに大きな隔たりがあるのです。
正直にいいますと、私はダブルイメージの写真を見て、怖いと思いました。それと同時に強烈に引き込まれていく意識を感じました。「これは何だ」という思いですね。
「いったい何が起こったのか」
どこを見ても分からないものだらけではありませんか。
しかも、自分の持っていた知識(常識)の通用しないもの達が、中央に向って規則正しく配列していくこの全体のムーブマン(動き)が、左右対称の形を作っているのです。中央に行くほどこの対称性が強まって行くのが分かりますね。
部分的に見ていたら何とも判断がつかない画像の断片が、中央に集まることで私たちの知性を満足させてくれる形(対称性)を生み出しているのです。
そこに私たちは、「何か」を見出します。神か悪魔か、それはそれぞれの感性がつかみとるイメージであり、100人いれば100のイメージが生まれる訳ですけれど、共通するのは、この画像から「何か」を見出すということです。
そして大事なことは、「何か」を見出すということの意味なのです。
「何か」を見出すということは同時に「何か」ではないものを認識した証しであり、「何か」と「そうでない」ものの境界線を意識したということなのですね。(あっ、もうちょっと諦めずについてきて~お願い)
たとえばもしこの画像の中にデビルマンの姿を見つけた人は、デビルマンの身体を認識すると同時にデビルマンでない背景を見ているということなのです。デビルマンでない部分は背景となるのです^ね^
つまり、デビルマンを見つけた人は、これは「何」?という知性の問いかけに対してデビルマンという答えを見つけたのです。
この時、これは「何か」という意識に対して「デビルマン」という言葉を与えたということになるのですね。
つまり、ここではじめて私たちは、この不思議なイメージに対して「ことば・名前」を使うことになるのです。
あたりまえのことですが、言葉があってイメージがあるのではないということですね。ことばを見つけると私たちは初めて、
「つかみきれないイメージ」⇒「分からない」⇒「何」⇒「デビルマン」というように知性の流れを環にして完結させることが出来る。
結局言葉とは、つかみきれないイメージをひとくくりにして結んだ結び目のようものなのです。(何いってんの?)
だからぁ、言葉(名前)というのは、つかみどころのないイメージの中から一つのまとまりを見つけ出して命名したものなのですって。
{こんなややこしい話をして、何が言いたいのかという怒りの声が聞こえてきそうですが、もう少しで核心に行きます。}
先に、100人いれば100のイメージと書きましたが、
同じ画像を見て、「神」を連想したり「悪魔」を見たり、そしてあなたはそこに何を見るのでしょうか。つまり様々な感じ方や見方があるわけですね。
100人が100人、同じものを見ながら、それぞれのイメージに思い思いの境界線を引いて、その境界に囲まれたものに対して命名するのです。
つかみどころのないイメージの海を目の当たりにして、私たちの知性はこうして命名することで初めて安心できますし、そのことによって私たちはそれを理解したと思える訳です^ね^
そうすると、この画像には↓
100の名前が生まれますね。人の数だけあるということです。そしてこれが、まだ言葉を持たない原始の人間が見ている風景のイメージだろうと思えるのです。
そう考えていくと結局、言葉を作りだした人間の歴史というのは互いに意志疎通を図りながら、共通・共感するイメージをすり合わせて100の名前を一つにしていく努力の中にあったのだと私は思うのです。
何千年もの歴史を受け継いできた私たちは今、この風景を見ています。↓
この世界の認識は、私たち人類が生み出したたゆまないコミュニケーションと育み・教えと伝達の結晶なのですね。
この風景の中に、私たちが認識できないものは何もない。(実はそう思ってるだけだけど)
安心して見ていられる風景、雪を頂いたサツキです^ね^
「何?」と思ったらすぐに答えの与えられるこの安心感は、私たちが人類の歴史に包まれているという証しなのです。
祖先は化石となって地層の中に眠っているのではありません。
この風景の中に、今私たちの安心感として生きていると考えてもいいと私は思うのです。
それはともかく、
この風景の中で、私たちは自分を認識します。
自分を認識するというのはもうお分かりですよね、
無限に広がるイメージの世界の中に、己と己でない部分の境界線を引き、その範囲を私だと認識して安心していられる、まさにこの私ですよ^ね^
この私認識もまた、我が人類の歴史の産物です。
その常識から見れば、
呼吸する命でありながら、鼻の穴の外は私ではない空間であり、引力に引きつけられているこの身でありながら、足の裏の下は私でない地球ということになるのです。
あるいは、この身体そのものが、素粒子の集合体でありながら、現に見える皮膚のかたまりをただ一人の自分と考える訳です。
つまり、真鹿子さんの「宇宙体」「人型素粒子宇宙」という言葉は人間の歴史を更に推し進めていこうとする新たな試みだといえるので^す^(い、いきなり真鹿子さん感すぎません?)
そんな訳で(だからどんなわけなのよ?)
今後当ブログでは「真鹿不思議のドア」を設け、必要な時にありがたい真鹿子さんの言葉に出遭える扉にしますので、ご活用下^さ^い^。^(それ言いたかったのか)
お水を一杯。え?水くらいアッチにもあるだろうって?
まあそうなんですが。気は心、お願いします🙇。
はあ。落ち着きました。
アッチのブース?での慣れないにわかママ、とても楽しませていただいておりますが、緊張も致します。
マスターのご苦労が偲ばれます。
しかしマスター(水飲んで元気になった)。
なんか七めんどくさいこと、おっしゃってますね 😅。
えーと、状況やイメージに名前を付けることでコンセンサスを作って、安心する暮らしをおくれるようになる、それは人類の歴史の賜物。しかしそれのみに囚われるのは危険で窮屈、真鹿子さんに柔らかな感性をご教授?いただきましょう…と、乱暴に言うならそういうことなのでしょうか?
もう一度、読んでみます。
お邪魔しました〰。
大役で、全然眠れなかったんじゃないですか? 緊張して。
ロールシャッハの画像ですが、「 秘境の奇習祭り 」を連想致しました。
で、安心致しました、あっそうだ ♪、と。
鼻の穴の前、私の空間だとばかり認識しておりました。
この己ではない空間との認識、共通事項として重要であり、妻との境界線争いもこの貴重な余生の中、激減するものと期待致しております。
言葉においてあるもの
心においてあるもの
おいてある場所はそれぞれ違うが、いずれも決して無関係ではあり得ない。
心においてあるものは、外においてあるものなしには成り立たない。
心においてあるものは、言葉においてあるものなしには成り立たない。
『我々が観察するものは自然それ自身ではなくて、我々の質問の仕方にさらされている自然だということを考えておかなければならない。』
Werner Karl Heisenberg
こんにちは!
この度は、
稚拙ブログをご紹介くださいまして
ありがとうございます
何とお礼を申し上げたらよいのでしょう
不思議なことに、長引く速度制限と共に、
わたくしもいささか失語状態でして、
失礼しておりますが、
のしてんてんデッサン教室では、
デッサンを学ばせて頂きまして、
線引きを実践しておりますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
少しずつ暖かくなってまいりました。
みなさまのご活躍を
心よりお祈り申し上げます🍀
のしてんてん画伯!
お心遣い感謝感激です☆♪
まかこ 拝
とても楽しく「ふんどりかえって」務めさせていただいておりますけど、やはり緊張致します。
基本楽しんでおります。
アチラのお座敷?もまた、遊びに来て下さい。
それでは。
…改めて、”言葉とは…先祖様たちが本当に長い時間を掛けて積み重ねてきた賜物”…学びになります、本当に…!
(言われるまで気づかない自分の愚かさも悲しくはありますが)
真鹿子様の通信制限…本当に通信制限は手痛いです…。(過去5回以上食らった経験)
ですが…反面教師的な方向で申し上げさせていただきます…(…疲労のせいか…他に言葉が浮かばず…かなり直接的になりますが…)
「真鹿子様の記事、詩の輝きとパワーは…再投稿が出来ない程度では”衰えたりしない”」と。
…記事のコメント欄を見ると本当に想います。”赤の他人が共感を持ち、その上コメントまでしてくださる…それほどの力が真鹿子様の記事にはある…!”※私の記事にはその力はほぼないので羨ましい限りです…。
それこそ言葉が”世代も時代も世界も越えて伝わる。感性が心と心を繋ぐ生き証明”だと想います。
※あちらのお座敷では…すいません。…どうも私事(リアルの話)の蓋を開けると…大惨事しかでない身なので。私の場合:ネットでリアルは禁止(現実逃避)…遠目で見ている方が無害…うまくやらんと。…人の輝きは容易く見えるんです、自分の闇が深いので。
おはようございます!
お心の篭ったコメント☆
ありがとうございます♪
折師様の純粋真摯なお気持ちが輝いています。
実にこの摩訶不思議奇跡宇宙、
私たち地球人類に感受できています宇宙は、
宇宙の5%足らず、
宇宙の95%以上は、
地球人類には感受できない
未知領域の闇!
これは私たち人類も同様で、
私たちは心身脳も遺伝子も細胞も
意識も心も魂魄も素粒子観点から観ましても、
95%以上が未だ認識できない未知領域の闇
宇宙同根多種多様万物一体の
宇宙の一部である
未知領域闇の宇宙体です。
けれどもこの未知領域の闇は、
宇宙無限大ののびしろ
宇宙可能性無限大の闇でもあります。
想像は創造と連動!
想像出来ることは創造出来ること☆♪
極微人の極微力の極微歩きですが、
地球の爆弾すべて花火となれ!
地球平和花火大会しよう!
に向かって諦めることなく
極微歩き邁進します^ね^!
宇宙の時も実に一瞬!
一瞬無限大の
奇跡の一瞬です☆
今日もかけがえのない唯一無二の
素敵な時をお過ごしくださいませ♪
感謝一念
まかこ 拝
けれど私の観るところ、この経験が文筆力に必ず役立ちますから、この苦労これからも買ってください^ね^
ところで、頭を混乱させているようですが、この記事は来る4月23日~25日の三日間、寺に籠って絵を描くための私なりの精神修養なのです。(何胸張ってんの、そこでまず失格!)
何のために絵を描くのか。
そろそろ集大成しなさいと言われてやることはそこしかないという思いの産物です。
安全の中に納まっていてはけっしてつかめないもの。そこに踏みだせと云っているのだと、御住職の話しを深読みしているのですが、いまの私の心の中はその考えに90パセント賛成してくれているようです。
五次元の正しさを100%体験する。これが私の4月までに目指す心みなのです。(トラ馬さん、ここツッコまなくていいですか^ら^分かってて言ってま;す;から^ね^)
ただ、危険なことは云っていません。
危険でない解釈が出来たら、きっとおなじ風景を見ているんじゃないかな。
「秘境の奇習祭り」の連想は鋭いかも・・
ただしそれは、古代から続けられた「何?」の最後まで明らかにされなかった因習、言葉にならなかった世界、人間の奥深さでしょうか・・・
それにしましてもおうらやましいかぎりでございます。
奥様と境界争いがいまだにおありのようでお喜びもうしあげます。
私なんど、すでに境界線すら見えない境遇でおります。
しかし予見されていますように、私の体験からも、激減するのは火を見るより明らかですが、それを喜びと期待なさらぬよう老馬鹿心ながら申し上げま^す^。^
紹介して頂いたハイゼンベルクの言葉は意味深いものを感じますね。
科学者がここまで人間(観察者)を意識して学説に取り込んだ人は他にあったでしょうか。
その気付きこそ、私が言いたいことのすべて(言葉が滑ってますけど)を物語ってくれている気がいたします。
「あるもの」それ自体が心の産物それをどう理解するか、描くということに託したいと思いま^す^
いつも御教示ありがとうございます。