(流木で作った看板、浜に打ち上げられた流木を拾ってつくりました)
私が子供の頃、母がよく「むねやけ」という言葉を使うのに気付きました。「むねやけ」と言って胸をとんとん叩きながら、苦しそうな表情をしていましたので、あまりよくないことばなのだと想像はつきましたが、どうしても理解できませんでした。「ゆうやけ」のようなきれいなものでないのなら、胸が本当に焼けるのだろうか。
その後長じて、食事の後で、胃酸が食道に上がって焼けるような痛みを覚えたとき、「これだ!」と心の中で叫んだのをはっきり覚えています。
その時私は、自分が大人の仲間入りをしたような気になったものでした。
「ことば」はこのようにして受け継いでいきます。「ことば」は自然界にあるものではありませんし、道端に転がっているものでもありません。どんなに歴史の深い言葉でも、それは私たち人間がつくった道具なのです。つまり「ことば」の習得には教えが必須条件だということなのですね。しかしまた、教えだけでは完成しないというのが、冒頭の体験談なのです。
目に見える物の名前の伝達は特に問題はありませんが、心の中にあるものは大変です。その伝達は、図のように、二つの変換を通して伝えるしか方法がないからです。
まず伝えるべき自分の心を、表現できる形にして相手に渡します。その表現を受け取った相手は、心の中で、教えられた表現を、自分の理解できる形に変換して心に収めるわけです。
「むねやけ」は、私の内側で体験がなかったために変換さえできずにいたわけです。
さらに厄介なのは、教えを授けた人が、相手にどう伝わったかを知ることが出来ないことです。それを知るためには、相手の行為を見て推し量るしかありません。推し量るには、学校でつきもののテストが最善の策だというわけですね。
そう考えれば、私たちは互いの心をほぼ100%誤解して生きているといってもいいでしょう。
ここで「誤解」という言葉を使ってはいけないのかもしれません。「誤解」という言葉には受け身の心が反映しています。するとそこからマイナス思考に陥る危険が潜んでいるからです。
言い換えましょう。人は自ら生きようとしたとき、つまり能動的に心を定めたとき、もっとも自然な姿になります。その姿勢から言葉を選べば、ことばの持っているこの欠点は、「誤解」から「冒険」に変わります。
私たち人間は、「ことば」を発明してはじめて、無明の心の世界に向って「冒険」の旅を始めたのです。人が理解できないのは、あるいは自分を理解できないのは当然で、まさに私たちは未知の世界を冒険しているからなのです。
理解してもらおうという思いを持てば、苦悩は必然的に現れます。しかし人生が冒険であれば、私たちの前にあるのはすべて未知の世界なのです。苦悩は必ずその質を変えてくれるでしょう。私たちの目的は、理解してもらうことではなく、生きるということなのですから。
私には30年連れ添った人がいますが、まさに未知との遭遇がいまも続いています。(笑)
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