「吾は空なり」
口では簡単に言えるし、
五次元の概念を使うと、視覚的に理解することもできる。
しかし、
空を我と思い定めて、難しいのは強烈な身体感覚だ。
つまり有限。
限りあるこの身体。
身体を造っている素粒子たちと、それを浮かべている空間。
そこに無限(空間)と有限(物質)が同時に存在しているのだ
空に意識を向けると、無限の中に溶け込んで我は消える
物質に目を奪われると、有限の中で身をはかなむ諸行無常の世界だ。
真実と呼べるものはどこにあるのだろう。
「我を捨てよ」、世の覚者は口をそろえて言っているように思えるのだが、世は空間だけで成り立っているのでもない。
今、この瞬間に実在するこの身。
これを真実と呼ばなくてなんとする。そう思い定めてみると、私たちは無限と有限を同時に見つめなくてはならないことが分かってくる。
「吾は空なり」というとき、ピンクの空間と白の空間に境界を見定めることが必要だということだ。
本質は一つの空間であり、白とピンクに境界線はないのだが、この身が存在する以上、このピンクの空間は白の空間とは違う、己の空間と言えるだろう。
つまり無限の空間に、有限を持ち込むわけだ。
実際、ピンクの空間と白い空間には大きな違いがある。
それがエネルギーなのだ。
ピンクの空間は、白い空間に比べてはるかに強い力を持っている。その力が素粒子をひきつけ、白い空間の中にヒトの身体をつくりあげている。
ピンクの空間エネルギーが強いために、私たちの身体は宇宙に拡散しないでこの身体を保っていられる。
つまり私である「空」は、高いエネルギー体であり、このエネルギー(ピンク)のかたまりが私であるというイメージを持つことが出来るのだ。
このピンクのかたまりを私たちは身体感覚として意識している。
空間はエネルギーだと考えれば、エネルギーから意識という言葉が呼び起こされる。
エネルギーを意識という言葉に置き換えると、
ピンクの空間を自己意識と呼ぶことが出来る。すると白い空間は宇宙意識ということになる。
「吾は空なり」という達観は、自己意識と宇宙意識を区分して、無限と有限を同時に見る眼を養うことになるのだ。
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