私にとって信仰とは、そこに毛一本の偽りもあってはならないものだ。
居心地の悪いものはどこかに偽りを含んでいる。
そのために私はどの宗教にも帰依することができないで生きてきた。
これまで触れることのできた宗教のどれをとってみても、ありがたい教えであるのは知っている。キリストも釈迦も、真理を得た人たちであることは疑いない事実だ。
教えは2千年を超えて伝えられてきた。教えとともに生きればいい。
だが問題はいつも、この瞬間にある。
昨日理解しても、今日受け入れられるかわからない。
私の心は、この瞬間この瞬間を生きている。
昨日の知識は今この瞬間の命にとっては牢獄になる。
元旦の声明で感じた違和感はそこにあったのかもしれない。
苦楽の根本が見えている。
この根本を見据えて初めて、「浄土」苦楽は描けるのではないか。
私はすでに、信仰を超えて、生きるという段階に身を置いている気がするのだ。
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