「浄土」苦楽を描きながら、その先を見据えている。
門をくぐったその先にある世界、真実しかないその世界をどう描いたらいいのか、
その答えを求めながら描くのがまさに「浄土」苦楽と言っていいだろう。
しあわせを求めて、苦悩と戦ってきた、その前には無抵抗な心が苦悩にさらされ続けた時代があった。
やがて苦悩と戦うのは誤りだと気付きはじめる。苦悩はやってくるものではなく己が作り出している幻想なのだという理解がやってきたのだ。
苦悩は己が作り出しているのなら、しあわせも己が作り出すものだ。当然そんな考えがやってくる。苦悩がやってきてもそれ自体がしあわせにつながるものだ。そう思えればすべてがしあわせになる。
すると今度は、苦悩をしあわせにかえようとする戦いが始まる
誰のせいでもない、すべて己の仕業だという理解は、己の中に堂々巡りの苦楽地獄をつくりだす。まるで賽の河原のように、しあわせをつかんだと喜んだ次の日には鬼が来てその幸せをけり崩していくのだ。
その地獄を舐めつくしたら、自然に地獄の正体が見えてくる。その正体は幸せに変えようとするその思いと努力に他ならない。幸せを願う心、それこそが苦楽地獄をつくりだしている。
すべてを受け入れたらいい、すべてを受け入れたら真実がやってくる。真実には苦楽はない。理解すれば、宇宙とともにある永遠の至福至ることができるだろう。
苦楽の世界で心は、終わりがない堂々巡りをして螺旋を登っていく。私のような凡人にはそれだけが唯一の生き様だと思うしかない。そこに「浄土」門に至る道があるのだ。
宇宙とともにある。そう理解した私の心は至福に満たされるはずだった。
ところが、元旦の御住職の講話がそれを覆すことになったのだ。
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