幽体離脱の体験
こう書くと、なにか得体のしれないオカルト話と思われますので、長いあいだ封印していた体験です。
先に言っておきますが、「幽体離脱」の意味をネットなどで調べて、学習しないでください^ね^
知識は不要です。
というより、巷の知識に左右されるのは危険ですし、私たち自身にとってそれは微塵も真実ではありません。真実は、常に私たち自身の中にありますから、分からないことがあったら、いつでも自分の中を探してください。外の情報は参考資料にすぎません。
とはいえ、私の体験は幽体離脱ということば以外に適当な言葉がありません。こんな話です。
私はキャンバスの上に鉛筆の線を引くという単純作業で絵を描きます。すると、鉛筆の芯がキャンバスの上を滑る音が意外に大きいのです。
ラジオを聴きながら作業することが多いいのですが、線を引いているときは、音のためにラジオは聞き取れないほどの音がします。
当然その音は、手の動きにあわせて、単調なリズムで延々と続くわけです。
ガリガリがりがり、ガリガリがりがり、ガリガリがりがり、・・・こんな感じです。
描きながら、大体は絵のイメージを追ったり、最悪は今日のおかずは、なんて考えが浮かんでおりますが、
あるとき、そんな考えが止まったことがあったのです。無思考状態だったと思います。気付いたら私は、自分をななめ上から眺めているのです。
自分の頭のてっぺんが見えて、キャンバスに向かって手を動かしている。何の不思議もなく私はその光景をながめていた。その光景を今も覚えています。
そしてもう一つこんな体験もありました。
鉛筆画修行中でしたが、これはスケッチブックにコップを描いていた時です。
ただひたすら、コップの表面をえんぴつで辿っていく。そんな感覚で描いておりました。背景の黒い空間を描きこんでおりましたところ、手の力が余って、鉛筆が止まらず、コップの縁から内側に行ってしまったのです。
その瞬間でしたが、私の頭に、「チーン」という、瀬戸物を箸でたたいたような音が聞こえたのです。ハッとして手を止めましたら、鉛筆の芯が、コップの縁に少し喰い込んでいたのです。
なんどもあった経験ではありませんが、ずっと心に残ったままです。
不思議な体験でしたが、ふと思ったのです。
これは、「吾は空なり」という考えから説明がつくのではないかと。
今なら、不思議で止まっていた体験の中に入っていけるような気がするのです。
悟りの境地に?
多くの禅師は
音から悟りの境地に達した
みたいです。
(坂田さんのリンク内に科学的な根拠あり)
心身離脱の境地ですかね。
私は論法など語りたくないのですが、
その境地を求めても
持てるものではないため
宝くじに当選したと思います。
不思議と言えば不思議な体験ですね。
いつかの教授ミニチュア化に通じるお話のような気も。
違うのでしょうか?
現在の科学?で説明するとしたら『認識のズレ』みたいな感じで括られる現象、というか。
……つまんないっすね〰。
でも、オカルトだとは思いません。
むしろ、オカルトと考えない方が面白い、気がします。
いや、面白いとか面白くないという問題ではナイ、でしょうけど(笑)。
誰にでも起こりうる、だけど気が付くのは稀な、そんな現象……ではないでしょうか?
まだしっかり読んでいませんが、
確かに興味深い記事がたくさんですね。
心の深い部分を科学的に説明出来たら、とても伝えやすくなるのでしょうが、そんなことが可能なのかどうか、私にも分かりません。
それにしても、
音から悟りですか。
感覚は意識の根本にあるからなのかもしれません^ね^
はなさんにとって
香りは瞑想にどうつながりますか?
体験をちょっと聞いてみたくなりまし^た^
自分をごまかせないものですから、納得できるまでつい考えてしまいます。
ミニチュアとはちょっと違う感もあって、対象が自分なものですから、もっと根本的な意識が絡んでいるように思えるのです。
正しいかどうかは別にして、
どこまで言葉で迫れるか、やってみたいと思います。
またツッコミをお願いします^ね^
(ちなみに漢字の名が桂蓮なので蓮の花)
ApplebaumはFamily名
蓮にとって
香りは(線香)
心を落ち着かせる欠かせないものです。
悟りなんて
あまり気にしませんが、
のしてんてんさんの作品は
悟りを体験した(或いは類似)
ものしか表現できない何かが
あります。
もしかしたら
悟りを描く
最初の芸術家になるかも?
時間がもし取れましたら
私のゼロ次元のコメント欄で
『一つの原案的思考(要推敲) (T)』
読んで頂けたらと思います。
のしてんてんさんの今回の記事と繋がっているのでは??と思っちゃいました。
最初の芸術家☆♪
同感です~~^^感動!
のしてんてんさん☆
はなさん☆
有り難うございます
感謝∞八方拝☆
ですので、私のイメージで「はなさん」なんて呼んでいますが、
もしよい響きでなかったら、あなたの心に届く呼び名を教えてください^ネ^
Tさんの記事を読ませていただきました^よ^
表現は違いますが、0地点に至る。
真実はそこにあって、そこに至る道は人の数だけあるということを実感しました。
Tさんの数理は私には分かりませんが、つながれる方だと思いますね。
とても興味深いです。
それにしましても、ドキリとしました。
悟りを描く??
考えたこともありませんでした
うれしいというより、ちょっと言い表せない気分で^す^ね^
というのも、確かに、悟りを求めて描いていますが、
もし到達してしまったら、絵は意味がなくなります。
空には太陽がありますから、同じものを描いたところで、私の師(具体美術)の教えに背くとになります。
「人の真似をするな」
この自然に付け足すものは何もないわけですね。
ですから、私に道は描けても、悟りは描けません^ね^
でもね、はなさん。
私は、自分が消え入るその地点まで、絵を描き続けたいと思っているのです。
だからはなさんの言葉。
大切に心にしまっておきます^ね^
でも、オレンジ色の満月(かな?)が西の空に残っていて、あったかい気分になれました^よ^
今日書く記事のことが頭に流れてきて、お月さんと向かい合っていると、温かそうなお月さんに手が届きそうな気がしたのです。
光を頂いていますし、光は私との間の空間から立ってくるなんて、漠然と思っていますと、お月さんが自分の身体の一部に思えるのです。
寒さを忘れる一瞬を、
まかこさんにもおすそ分けします^ね^
まかこさんも私を桂蓮と呼んでくださいね。
悟りは悟ってからが始まりで、決して終わりではないのです。
悟りが見えないから、絵にして見せる
それが宿命なのでは?