様々な自我達
前回「自我について」の記事は、予想以上にたくさんの方々に読んで頂けました。心より感謝申し上げます。
そして何より、コメント欄において、桂蓮様とむっちゃん様の三つ巴のお話となりましたことが、予想外の喜びとなりました。
お二方にもよき機会でありましたら幸いですが、私にとっては得がたい御教示をいただいたと思っております。
立ち位置の違うお二人から同じ指摘を受けましたのが、論理が完結しすぎるということでした。読む側に考える余地がないということは、真摯に受け止めなければならないことだと思います。
そもそも論理だけで思いが伝わるとは思っておりませんので、心置きなく説明症の末期を看取ってやるつもりで^す^。
何よりありがたかったのは、
桂蓮様から頂いた次のご教示でした。
「壁は破ろうと思えば、できるのです。自我の壁はそう丈夫ではないと経験から学びました。」
これはおそらく、私の記事に書きました、「壁を乗り越えるには、尋常でない強い精神力が必要になるのです。・・・どんなに努力しても〇〇になれないと思われる事態に直面したら、人はその壁を乗り越えようと考える前に、苦悩と自己嫌悪を併発して壁に頭を打ち付けるのです。」
の記述に対して頂いた感想とも思えるのですが、はっきり言ってこの御教示は素晴らしくも深い感銘を私に与えてくれたのです。
何より、桂蓮様の言葉は、ご自分の実人生そのものから出た言霊と思えますし、自我という壁が黒光りする煉瓦のようだという私の思い込みを桂蓮様の人生が鮮やかに打ち崩してくれたというのが、清々しく爽快です。(自我についてのコメント欄)
私なりの理解は、こういうことでした。
つまり自我というものは、己を守ろうとする意識が働いているときには、煉瓦のような城壁をつくる。
けれど、己を生きようとする強い意識の前では、自我の境界は自然に消えていくのではないかということです。
そしてこのことは、小さいながらも(桂蓮様と比較になりませんが)自分の中で体験していることだったのです。
たとえば、絵を描くということもそうでした。
鉛筆絵画を自分の表現として開眼してから40年この方、私は絵画に自我の壁を感じたことはありませんでした。
むしろその境界線は自己意識と宇宙意識の渚があるばかりで、たとえそこにマンネリの壁が生まれてきても、私のなすべきことは不断にその壁を打ち壊すことだと考えてきたことは事実だと言えます。
というより、芸術というものは、もともとそういう攻める自我が生み出したものだったのかもしれません。
絵を描いているとき、私は無我夢中でした。まさにその時、言葉通り無我である訳ですね。
それは絵にかぎりません。
折り紙にしても、創作詩にしても、あるいは文学、工芸、武術、スポーツ。囲碁将棋、ゲームに学術そして研究、あるいは子育て、恋愛。数え上げたら、およそ人間のやることのすべてにわたって、人は夢中になれるものを与えられていると思えるのです。
なぜ夢中になれるのでしょうか?
それはきっとその時、己を守る意識から攻める意識に変わっているから。
それはその時、己はダメという意識から、これで良しという意識に変わっているから。
それはその時、己は出来ないという意識から、出来るという意識に変わっているから。
それはその時、強烈に生きる意識を持っているから。
それはその時、己を信じる意識が全身を支配しているから。
それはその時、己の身体の動きに一抹の疑問も不安も持たないから。
それはその時、マイナス思考から、プラス思考に転じているから。
それはその時、己の思考(自己意識)と宇宙意識が一体となっているから。
それはその時、己のほかに存在しないから。
それはその時、あなたなら?
きりがありませんが、ようするに自我とはすべてを受け入れて良しとするとき、無我夢中に生きることが出来る。
そしてその時、桂蓮様から指摘されたように、前記事の自我のイメージ
煉瓦の要塞は消えてなくなっているのですね。
ところが私達は、常に無我夢中で生きていくことは出来ないし、己が夢中になるものを誰もが手にしているわけではありませんね。たとえそれを見つけた人と言えども、一日中夢中は無いはずです。その時心は攻めから守りに転ずるのです。
攻めから守りに転じた人生を甘んじている人々は私を含めて実に多いいのではないかと思うのです。守りに転じた自我は、大なり小なり煉瓦の城壁のような自我の壁に取り囲まれてしまうのです。
人生は苦なりというブッタの教えを借りるまでもなく、私達は日々苦悩を感じて生きているのですね。
その時自我は、夢中から冷めて、不安が生まれる意識に変わっている。プラス思考がマイナス思考に切り替わり、守るものを抱えて自我の壁の中に逃げ込んでいるのです。
そしてこの時はじめて、前記事で書いた気付きの意識が、心を不安から夢中に変えてくれる力を持っていると言いたいわけなのですね。
私達は意識を変え、悪しき思い込みを見極めて己の真実を理解すれば、誰一人例外なく自我の壁を打ち破ることが出来る。
しかし、その可能性の話しは、次回ということにいたしましょう。
「 時間よ止まれ ワぃは眠い 」という有名な言葉がありました( ないよっ )
自分の足元が暖かく感じると、壁は低く見える。
逆に、足元が冷たく感じると、壁は天にも届く。こんな有名な言葉がありました( ないよっ )
寝起きの sure_kusa は心がドンヨリ。
で、お鼻をチ~ン ♪
明日は晴れるのでしょうか? のしてんてん さま。
ドーンと目を覚まさせてしまいました^か^。
だからやめなさいって言ったのに!
せっかく花火の写真撮ったので、タイムリーにって言ったって、ほれ見なさい!ビックリした人いはるでしょ!!
お気の毒に、
お師匠様のドンヨリした眼、でも明日は晴れるようですよ。安心してお昼寝してくださいませ。
ただいま台風21号接近中。お昼には大阪らしく、花火どころではございません。
っていうより、花火に浮かれて、昨日からそのつけが回ってきまして、雨漏り対策、防風対策と、使い倒されておりました。
もとい、
使われると思うと壁が高くなりますので、そこは私、自ら進んで屋根に上りコーキング補修。家の周りのガラクタを拾いまくり風対策。
するとパンク修理同様壁は低く、またげるほどで、実に^快^適^
つまり自ら進んで、お妻に従えばいいと今気付いたのでございます。
いやァ、台風とお師匠様のおかげと喜んでおりま^す^
それもありでしょうね。
けれどプランBもあるのです。
意識を変えることは簡単ではないです。
己の真実は場合や状況によって変わるので、
何を基準にするかが肝要でしょうね。
真実、誰も簡単に口にしますが、
真の実というのは、
のしてんてん様の作品のように
実になって表れたことやものを指します。
人にとって実になって現れたものやことを
理解すれば、自我の壁を打ち破ることができるーそうかもしれませんが、
まだ実になっていない人にとっては
真実を確認することは難しいでしょうね。
批判的になるつもりはないのですが、
若い人やまだ人生経験が浅い人に
己の真実を知ろというのは
結構、無茶な要求になるかもです。
意識を変えるのも
難しいから、やってみて
更なる挫折を味わえる結果になりかねません。
あまり、結論でペリオドを打ちすぎないことですかね。
心というものは、いつだって進行形ですよね。
真実というものは、あって無きようなものですから、何事も体験してつかまえるしかないものなんだと思います。
だからピリオドを打っているのではなく、つまりここに行きなさいという目的地を書いているつもりはないのです。
目的地はその人にしかない独自のものと思っているのですが、
そう受け取られるということは、私の書き方が悪いのです。考えてみますね。
私はただ、挫折したり、苦悩している人が、こんなふうな考え方をして観たら、楽になる(かもしれない)よと発信しているのですが、
もし楽になったら、その向こうに自分の目標が見えてくるのではないかと期待しているのですけれど。
言い換えれば、私的所有できる自分というモノの事です。
しかし、死ななければならなくなった、
という前提で物事を考えてみれば、自我というのは、さほど拘る必要があるのかどうか?
持たねばならない程のモノかどうか?
生きるという現実に直面している自分が、
ある時不意に、生きることが死ななければならなくなった事に気付いた時、人は様々なことをするのではないでしょうか?
のしてんてんさんにせよ、桂蓮さんにせよ、
それまでの自我を保つもよし、改めるのもよし
捨てるもよし、という様に
自我に関わること自体、自我は自我として捉えられた以上、自我を捨てることは不可能です。
ただ、忘れることはできるのです。
しかし、あくまで、忘れるだけの事です。
「無我夢中」とはそういった意味でしょう。
自分を省みることが反省ならば、自我が無くては到底できません。
自我というとらえ方は本当にまちまちなのだと思います。
まちまちですし、自我とはこうだという決めつけもまた、あってはならないことだと思いますね。
自我を捨てることは不可能と言われるトラさんの答えも正しいでしょう。
仮に一つの自我があるとして、私達はみな違った立ち位置からそれを眺めるしかありません。同じ場所から眺めるのは不可能なのですね。
見る位置が違うと、同じものを見ていても、まるで違ったものに見えているに違いありません。それが自我だと私は思うのです。
もし共通に自我を語れる場があるとすれば、それは自我と非自我があるということ。
自我+非自我=全宇宙という公式は、すべての自我にあてはまると考えるのです。自我をそこから考えてみようという訳です。
自我を殺すにしろ消すにしろ、忘れるにしろそれはそれぞれの立場から見た比喩であって、ようは孤立した自我と非自我の接点を見つけて全宇宙を体験したいという願いなのではないでしょうか。
苦悩も自我
無我夢中になって何かを成し遂げる
その幸福感もまた自我
トラさんのおっしゃるように、自我なくしてはありえないですね。
その上で、苦悩を和らげ幸福の自我をつかみたい。そう思うのですね。
共有できるところがありましたら幸いです。
自(みず)ら我であるモノ、と、
自(おの)ずから我であるコト、の違いなのではないでしょうか?
自(おの)ずから我であるコト=自然と一体の心
私はこう解釈しますが、いかがですか。
自我を含めて自分という出来事を経験しているという事です。
例えば、
幸福という心的概念に、自我として実在性を持たせようとすると、心は単なる随伴現象に他ならないわけです。
幸福という自我はモノとして捉えられた以上、
そうであることが望ましく
そうあるべきであり、
そうでなくてはならない。
と言った様に、心はそれに向けて舵を切ってゆくわけです。
即ち、幸福という自我は、心と大変相性がいいわけです。
希求性、充足性、常習性、習慣性、
いずれにおいても該当し、普遍性として固定化し易いモノです。
別に自然と一体であるというわけでもないでしょう。
ただ、自らが原因となって、自ずからそうなるといっただけの事です。
今までご意見を頂きながら交流してまいりましたが、今回頂いたコメンは私の想いにほぼ100%浸み込んだ、そんな思いがいたしました。
「幸福という心的概念に、自我として実在性を持たせようとすると、心は単なる随伴現象に他ならないわけです。
幸福という自我はモノとして捉えられた以上、
そうであることが望ましく
そうあるべきであり、
そうでなくてはならない。
と言った様に、心はそれに向けて舵を切ってゆくわけです。」
モノは目標になり、目標は自我を向わせるモノに変える。
苦悩もまたモノであり、反目標に過ぎない。反目標は自我を逃げるモノに変える。
幸不幸は、自我をモノと化してその間を往復させる。
あるいは逆に自我をモノ(どこかに向かうモノ)と意識することが幸不幸を作りだしている。
いずれにしても、それが自我の描くドラマということでしょうね。
そのドラマが終わったら、明かりのついた映画館。
あるのはただ、おのずから我であるコト(事象)だと言えるのですね。
中動態、それはただ気付きなのだと思います。
いかがですか?