のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

神ということ2

2018-01-30 | 5次元宇宙に生きる(神)

神を言葉に表すことは出来ない。言葉は神を俗物に貶める。

 

 

悪いことをしたら罰があたって地獄に行くよ。天国に行きたかったら、悪いことをしてはいけないよ。人が見ていなくても神様はいつも見ているからね。

 

私の心中に、最初にうえつけられた神のイメージですが、60数年を経てこの言葉が指し示している真実を私は次のように理解できるようになりました。

「悪いこと」言葉通りに取ると、反社会的なことや様々な悪行を思いますが、それは浅い見方で、もっと悪いことがある。それは宇宙の自然な流れを阻もうとする心の動き。たとえば己の今に不満を持ち、今を認めない心。不足の自分に悲観し、その欲に付き従うこと。

「罰があたる」とは因果応報、神様が張り扇持ってなぐりに来るわけではなく、当然そこから苦悩が生まれる。「地獄」とはまさにその苦悩を表していると思えるのです。

したがって「天国」とは宇宙と共にあること。今この瞬間が唯一無二の最善と理解し(無理やり思うのではなく自然に)それを受けいれる心が出来た時に、全身で感じ取る至福のことだと考えます。

「人は見ていない」それはたまたま誰もいなくて見つからないという意味ではなくて、たとえ私が衆人の眼の前にさらされているときでさえ、人は私を見ることは無いという意味なのです。人と人の間には深い断絶がある。その真実を知れば、私を見ることが出来るものば神様しかいないということが分かるのです。

その神様は瞬きもしないで、よきことも悪きことも、一切の区分をしないあるがままの私を見て下さっている。私の孤独を、絶対に確かな存在だと認めて下さっている証しなのですね。

私たちは今ここにいる自分に気付いていますね。この自分に目覚める「気付き」こそ神様の眼。この「気付き」は私ではなく神からやってくる波動だということです。

 

人に意地悪をしていたら地獄に行くという、子供時代の理解からスタートして、この理解に至るまでには様々に道を踏み外しました。しかしその度に「地獄」を見せて苦悩という形で警鐘を鳴らし、一瞬だけ癒やしという「天国」を見せてくれる。当然癒やしの方向に行こうとしますよね。こうして進む方向を誘ってくれ続けた。その神様は私の心の中にいるのです。神様だけが私の裸の心に入ってこれるのですね。今はそう思えるようになりました。

(これらの話しはみな言葉の比喩です。言葉通りに受け取らないで自分の言葉に翻訳してください^ね^)

 

その神はけっして自分で自分のことを名乗ることはありません。神は自分のことをイエスとは言わないのです。もし名乗ればそれは言葉になります。言葉になったイエスはイエスでない部分を生み出し、自分の存在をイエスとそうでないものに二分してしまうのです。言葉とはそういうものなのです。(ここではキリスト教を例にとりますが、アッラーや仏である釈迦など、すべてに言えることと御理解ください)

 

つまり言葉は神のものではない。それは不完全なままの人間の道具だということを私たちははっきりと認識しなければならないのです。

 

「キリスト」は人間によってつくられた言葉なのです。あるいはこの言葉に違和感を感じる敬虔な信者さんに言うなら、迷走する人間を憐み、神があえて人間が理解できる言葉「イエス・キリスト」を遣わした。神自ら己に穴をあけ、人間のために窓をおつくりになったということです。人が作ろうが、神が作ろうが、窓(言葉)であることに変わりはありません。

しかしそれによって、キリスト教は神を半分しか理解していないと言っているのではありません。

私が宗教を敬愛するのは、人間が神を理解しようとする崇高な思いがそこにあるからです。たぐいまれなる宗教の創始者たちは神を見、100%理解したのです。しかしそれを伝えようとして後ろを振り向いたとき、伝える手段がなかった。唯一頼りになるのが言葉だったのです。

イエスという言葉はそのようにして生まれ伝えられた。それは人間と神のあいだにある一つの窓(門)なのです。イエスを言葉としてしか受け止めることが出来なければ、窓をくりぬかれた壁が神を隠してしまう。しかもその言葉(イエス)が神だと思いこむことで人々は結局言葉に踊らされることになるのです。

イエスの窓から、あるいはアッラーの窓から神を見その門に入るためには、互いに異教徒の門は邪魔になります。当然ですよね。私たちは同時に二つの門から入ることは出来ませんね。異教徒の門を意識しているうちは正しい門に向えない。だから異教徒の寺院を打ち壊せという教えになるのです。

その教えとなった言葉が示しているのは、あなたの心の中にある異教徒の寺院(迷い)を壊しなさいと言っているのに、言葉に踊らされたものが本物の寺院を打ち壊す。それが悲しい現実と言えるのでしょうね。

しかし言葉があるおかげで、敬虔な信者は窓に顔を入れて神を見ることが出来る。その門を押し開けて創始者の元に行くことが出来る。宗教とはそのようなものなのでしょう。

創始者は民衆を神の国に誘おうと言葉を尽くしたでしょう。戒律はそのための道しるべであったはずです。しかし民衆は道しるべの意味を問うよりも、言葉を絶対と考える。神の国に自らの足で行こうとしない民衆には戒律は単なる禁止事項となるでしょう。

 

宗教の対立はここから生まれます。

イエスという言葉を受け入れない者は異教徒とみなす。アッラーを否定するものは聖敵。すべて言葉ですね。

たとえば一つの経典が、英語と日本語で書かれていたとして、この場合私たちは互いに翻訳して言葉の違いを克服しますよね。

しかし、「イエス」と「アッラー」が出逢ったら、同一言語の言葉に出遭ったら、人はその二つの言葉を翻訳しようとはしません。なぜならすでに知っている言葉ですからね。それが言葉の罪なところと言えるでしょう。

言葉は知っている。けれどその言葉の指し示している窓の風景は開けなければ見えないのです。言葉は必ず翻訳しなければなりません。知っている言葉ほど注意してその言葉で言おうとしている真実を自分の言葉で置き換えてみる努力が必要なのです。

「イエス」の窓からでも、「アッラー」の窓からも、必ず真実の神は見えているのです。つまり信仰の人は自分の信仰する窓の向こうに正しき神の姿をみている訳ですね。

宗教の人は、自分の信仰する教義の窓から神に出遭う。

無神論の人は、自分の信じる論理や心の窓から神に出遭う。

神などいらないという人は、自分の思いの中に神を宿している。

けれど神から見れば、自分に向かってくるいくつもの窓が見えるのです。そんなところで覗いていないで入っていらっしゃいそう手招きしているかもしれません。窓は窓でしかない。それが神でありえないのです。

もし、「イエス」と「アッラー」が出逢い、互いに立ち位置を変えて窓を覗いたら、人は別の窓からも神が見えているのを知るでしょう。

言葉の争いをしないで、翻訳する智慧を身に付けたら、人はその時、互いに同じ道を歩んでいることに気付くのです。

 

私の経験から言えば、

実際のところ、私たちはひとり一人、貧富貴賤や宗教心情に関係なく皆等しく神様に向って開かれた窓を持っているのです。

人が見ていなくても神様はいつも見ているからね。

この素朴な教えは、すべての人に開かれた神様とのホットラインがあるということを教えてくれています。私であるこの気付きは、窓であり門なのです。

心を深く立ち入れば、私たちは絶対的な孤独に行き当たります。互いに分かり合えないという真実に必ず気付かされるのです。

しかし同時に、その孤独を見てくれている存在に向かって門がひらくのです。

門から入りなさい。

誘いのまま門に入れば、恐ろしかった孤独が神ゆえの孤高であったことに気付くのです。旅の終わりに私たちは電車から降りるように、乗ってきた思い思いの乗り物から降りてきます。

私たちが真に分かりあえる地点がそこにあるのです^ね^

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神ということ1 | トップ | 木下杢太郎記念館 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

5次元宇宙に生きる(神)」カテゴリの最新記事